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ハイキューはスポ根漫画なのか

雑巾がけの一往復 ボール拾いの一本 スクワット無限回
その後の美味い飯で俺らの身体はできとんのや
JC「ハイキュー!!」42巻 第368話

前回までの記事で、ジャンプコミックス「ハイキュー!!」の中の食事描写に注目した考えを書いてきました。
要点をまとめると、以下の3点になると思います。

①ハイキューでは、「積み重ねた者こそ強い」という哲学が貫かれている
②「積み重ね」とは、日々の練習、チームメイトとのコミュニケーション、体調管理などのこと
③体調管理の肝は、適切なタイミングでの栄養補給、「ちゃんとした飯」を取ること

そして一つ前の記事では、作中に多く描かれる、公式戦の間に登場人物が食事をとるシーンを紹介しました。
試合前後には必ずと言っていいほど選手たちがお弁当やバナナ、ゼリーを食べるシーンがあります。
選手たちは生きていて、たくさん動いたらお腹がすく。栄養を取らなければ、次の試合で動けない。そんな当たり前のことが作品にしっかり描かれているのです。
だからこそ、そうではないシーンが際立ちました。

41巻の後半、春高の準々決勝試合中に、主人公の日向翔陽は退場させられることになります。
それは連日の試合での異常な運動量から興奮が冷めずに、39度台の熱を出してしまったためです。
前日から彼はずっとハイテンションで、当日もご飯を食べようとせず体を休めようともしなかった。
日向は、「積み重ね」の重要な要因である体調管理を怠ったのです。
そして、日向と同じ低い身長ながらスター選手として活躍する星海光来と決着をつけることのないまま、体育館を去ることになる。

日向にとってこれが通過点であること

学生スポーツを題材にした物語には、漫画に限らずたくさんの名作があります。
しかし、主人公が重要な試合中に熱で途中退場する、という展開は今までにあったでしょうか。おそらく、容易には見当たらないのではないでしょうか。(私が未読の名作も多々ありますが)

一方で、こういう経験は学生、いえ学生に限らずすべての人に覚えのあるのものだとも思います。
重要な大会を前に体調を崩した、ずっと準備をしてきた本番の日に風邪をひいた、試合中に怪我をした…。
そして、そのせいで満足のいく結果が出せなかった。どんな人生にも降りかかりうる不幸な事態です。

物語を作るうえで、不幸な事態というのは展開をドラマチックにするのにはもってこいです。
だから、このような不幸な事態が逆転する事でカタルシスを生む、という手法は多くとられてきたように思います。
例えば、体を負傷した選手がそれを隠して試合に出場し、その事実が試合中に発覚する、であったり。
試合中に怪我を負ってしまった選手の代わりに控えの選手が活躍する、であったり。
ハイキューでは、キャプテンの大地さんが試合中に怪我を負い、その代わりの役目を縁下が果たす、といったエピソードもありましたね。

ただし、こういった展開が物語として成立するには、終わりよければすべて良し、つまり試合に勝利することが必要条件です。
誰かが怪我をした、誰かが風邪をひいた、そのせいで試合に負けた。
そんな場面は、現実にたくさんあふれています。だからこそ、物語にするにはいささか酷すぎる。
読者はもっと、ドラマチックで、明快な逆転劇を見たいと思ってしまいます。

しかし、ハイキューをここまで追ってきた方々は、そういった消化不良の気持ちにはならなかったのではないでしょうか。
それはひとえに、作中の描写の積み重ねによるものだと思います。
烏野高校のメンバーは誰一人、日向を責めないでしょう。3年生はこの試合で引退となります。けれども、彼らは日向の努力を知っているし、烏野を引っ張り上げた1年生に感謝の気持ちを持っているはず。
昔は暴君として知られた影山だって、今はチームメイトへの信頼を覚えた。月島は、不測の事態で試合を抜けなくてはならない苦しみを知っている。

そしてなにより、日向がどれだけ努力をしたか、練習をしたか。そして、彼がどれだけあきらめない強い精神力を持っているのか。
そのことをチームメイトも、そして読者も、いままでの物語についていく中で痛いほど理解させられたからこそ、この出来事は絶望ではないと感じる。
彼にとって通過点だろうと、信じることが出来たのだろうと思います。

挑む者だけに
勝敗という導とその莫大な経験値を得る権利がある
今日 敗者の君たちよ
明日は何者になる?
JC「ハイキュー!!」42巻368話

飯と筋肉

さて、この記事はハイキューの食事描写に注目するという名目を掲げていますから、そろそろその部分について考えなくてはいけません。
「飯と筋肉」という言葉を見出しに掲げてみました。これは369話のタイトルです。
369話というのは、日向が烏野高校バレー部員としての姿を現在軸で語る最後の話数です。
この話の最後で、数年後、日向がリオデジャネイロで生活している様子が描かれ、Vリーグ編に突入します。
そんな重要な話のタイトルが「飯と筋肉」なのはなぜなのでしょうか。

タイトルのもととなっていると考えられるのは、やはり監督の鳥養コーチの言葉でしょう。
発熱により試合を途中退場し宿で寝込む日向のもとに、鳥養コーチがおかゆを運びに行く場面です。

お前に気合や気持ちが足りなかったとかそういうことじゃない
心と身体は別個のものじゃなく 強い身体に強い心がついてくる
限界を超えるんじゃなく 限界値を上げていこう
大丈夫だ お前はもう知ってる 飯の大事さを
しっかり“筋肉”つけてこうや
JC「ハイキュー!!」42巻368巻

これを聞いた日向は、真剣な表情で箸を持ち、食事に箸をつけます。
同時に別の部屋で晩御飯を食べている烏野高校のメンバーたちの描写が重なります。
一人、泣きながらご飯を食べる日向。そして、きれいに空になった食器のコマが入ります。

一つ目の記事で紹介した、青葉城西高校に惜敗したあとの食事シーンとも重なる場面ですね。
ただ、ここで違うのは日向はメンバーとは別にご飯を食べ、一人で泣いているということ。
また、鳥養コーチの書ける言葉も、以前のシンプルな激励の言葉とは少し意味合いが違います。

鳥養コーチの言う筋肉という言葉は、カッコつきで表記されます。
つまり、物理的な筋肉という意味よりも、もっと大きなものを包含した言葉ととらえることができます。

実は、この一つ前の話でもこの「筋肉」についての発言をした人物がいます。
以下は、北信介という人物の発言です。

「結果が全て」や言うなら 負けた3年はもう無やんなあ 勝負しに来てる以上結果が全てで何の文句も無い
勝てへんなら「良い試合」も無価値かもな でも
雑巾がけの一往復 ボール拾いの一本 スクワット無限回その後の美味い飯で俺らの身体はできとんのや
筋肉(点付き)ならいっぱいつけてきた この先怖いもんなんか無いわ
JC「ハイキュー!!」42巻368話

北信介は稲荷ヶ崎高校の主将です。
毎日の練習、日々の健康管理、掃除、片付け、そういった当たり前で地味な作業を続けて、その堅実さを認められて主将に任命された人物です。いわば、「積み重ね」を実践してきた選手と言って過言ではないでしょう。

彼は「筋肉」をつけたことで、「この先怖いもんなんか無い」と言うのです。

おそらく、彼は高校卒業後もバレーをプロとして続けようという意思はそう無いように思えます。
また、語り掛ける相手である宮兄弟も、この時点ではまだぴんときていないでしょう。

とすれば、彼の言う「先」とは、この後高校を卒業し、進学もしくは就職をする未来のことでないでしょうか。
彼らが高校バレーに本気で打ち込み努力を積み重ねてきたこと。その地道な積み重ね。
それは、彼らがこの先行き当たるであろう困難や苦悩に打ち勝つための糧となる。
そういった意図からの発言だと思います。

そう考えると、鳥養コーチの発した言葉の意味も分かってくるようです。
毎日ちゃんとしたご飯をたべることのような、日々の積み重ね。
その積み重ねによって得たすべての財産を、「筋肉」という言葉は包含しているのではないでしょうか。

日向が身に着けた筋肉

とすれば、日向にとって烏野で過ごした一年間とはその筋肉を身に着けるための期間だったといえるでしょう。
あの酷な出来事。このから、彼が身に着けた筋肉とはいったいどんなものだったのでしょうか。

それは、彼が高校を卒業してから、単身でビーチバレーを経験しにリオデジャネイロに乗り込んだ、その先での人々が日向を言い表している表現を持ち出すのが良いでしょう。

日向くんは驚くほどこの地にも人間にも馴染んでいるのに
時折 日本の冬の あの冷たい風を思わせる
油断してはすぐ身体の内側が凍ってしまう
"無事"が当たり前でないと知り 鍛え 補い 管理し
“無事”を習慣化する
JC「ハイキュー!!」43巻375話

リオでの日向のビーチバレー選手としての活動をサポートしていた加藤ルシオの言葉です。
また、日向のチームメイトとの会話。
毎日練習に打ち込む日向に対して、エイトールは日向に「そんなちゃんとやってて疲れない?」と問いかけます。

ーー…爪をいっっっつも完璧に整えてたりとか
毎日バレー日誌つけてたりとか
練習も トレーニングも 「生活」みたいにやるかんじ? 
ーー!そうそう!飯食うみたいな  多分“努力”じゃないんだ本人にとっては (略)  愛車をピカピカに磨くみたいなバレーだな
JC「ハイキュー!!」43巻375話

日向は、日々の自分の身体の管理を「生活」のように、丁寧に「愛車」を「磨く」ようにしているというのです。
そして、そんなとき思い返すのは、毎日をバレーに打ち込む影山の後ろ姿でした。

春高の試合、日向に退場を命じるとき、武田先生のこんな言葉がありました。

この先絶対に こんな気持ちになるものかと 刻みなさい 
どうしようもない事は起こるでしょう
注意深く 刻みなさい
君は将来金メダルを取ると言った 
何個も取るといった
そして君は今“がむしゃら”だけでは超えられない壁があると知っている
その時必要になるのは 知識・理性・そして思考
日向くん 今この瞬間も「バレーボール」だ
JC「ハイキュー!!」41巻365話

武田先生の言葉は強く日向に響いたのだと思います。
あのつらく悔しい経験をして、日向はたくさん考えたのでしょう。
いつまでも最前線で試合に参加するために、自分は何をすれば良いのか。そうやって考え続けた結果が、ビーチバレーの経験であり、リオデジャネイロへの留学だったのです。そして、いつでも自己管理を欠かさないことを習慣としていったのです。

ずっと“がむしゃら”だった日向が、知識・理性・思考を備えて、日々の練習を、自分の身体の管理を行えるようになるまで。
それが日向にとっての烏野高校での日々であり、彼がその日々の中で得た筋肉だったのだと私は思うのです。

リオデジャネイロでの日向の朝ごはん
異国の地でも、しっかりと考え学び、ちゃんとご飯を食べているようです。

ハイキューはスポ根漫画か否か

高校入学時から、日向に欠けていたのは知識・理性・そして思考。地味な積み重ねやの大切さ。
それはたとえば、レシーブやサーブの大切さだったり、オーバーワークが危険であるということ、休息が必要であるということ。
こういった教訓を得るのが少年誌のスポーツ漫画の主人公というのは、少し“新しい”感じがします。
日向の成長を知るプレーというのが、派手な必殺技ではなく、レシーブだったりというところにも表れていますね。

というのも、疲れを知らず努力したり、危険を顧みずに挑戦したり、、といった資質は、いわば「主人公」が備えているものではないでしょうか?

スポーツを題材にした漫画やアニメなどの作品たちは、「スポ根もの」という表現をされることがあります。
「スポ根漫画」の定義付けをした漫画評論家の米澤嘉博さんの意見をもとに、漫画評論家で編集者の村上知彦さん、京都精華大学教授で京都国際マンガミュージアム研究員の吉村和真さんがそれらに要素を付け加えたものをを引用してみます。(Wikipediaからの孫引きになります。申し訳ない!)

努力型の主人公が血のにじむ特訓を重ね超人的な必殺技を編み出し天才型のライバルに勝利するといった図式化されたストーリー
— 『大衆文化事典』石川弘義ら編 弘文堂1991年
いずれの主人公も、身辺の苦難に耐え、過激な特訓を自らに課し、いくども挫折を味わいながら、不屈の闘志と根性で乗り越えていく
— 『スポーツの百科事典』田口 貞善 編 丸善出版 2007年

一つ目の引用通りに考えれば、日向はたしかに「努力型の主人公」のでしょう。
身辺の苦難に耐えというのは小さい身長のこと、いくども挫折を味わっている(中学時代は部員ゼロなど)ということも当てはまりますね。
ただ、以前も記事でも言っていたとおり、ハイキューには天才はいません。
誰もが生まれ持った資質に併せて、日々の努力を積み重ねたうえでコートに立っています。
あくまで天才「型」なので、まったく異なるとまでは言いませんが、少し違和感のある部分ですね。

そして何より、主人公はどうやって試練を乗り越えるのか?といった点です。
スポ根ものの主人公は、「血のにじむ特訓」や「過激な特訓」を経て、「不屈の闘志と根性」で挫折を乗り越えていくのだといいます。

日向をはじめ、ハイキューの登場人物たちはどうだったでしょうか。
いままで考えてきた通り、ハイキューという作品の中で何より重んじられるのは、「当たり前」の「積み重ね」です。
毎日の練習、自己管理、日々の食事。その繰り返しで選手たちは強くなる。逆に言えば、それをおろそかにするものに成長はありません。
つまり、体にやみくもに負荷をかけたり、根性でそれらを乗り越えようとしたりするだけでは、強くなることはできない。挫折を乗り越えることはできない。

とすると、いわゆるスポ根ものの定義として、「不屈の闘志と根性」で挫折を乗り越えるという文言は、ハイキューにはあてはまらないようです。

闘志にあふれ根性もあり、無鉄砲で努力家の日向という「主人公然とした」主人公が、知性・理性・思考を備えて、自分を管理することの重要性を学ぶ。

従来の「スポ根」とは異なる成長を描いた物語。
それがハイキューという作品なのではないでしょうか。

高校時代=人生ではない

さらに言えば、登場人物たちの人生は、高校を卒業したら終わるわけではない、というメッセージでもあることも言っておきたいです。
無鉄砲な若さはとてもまぶしいけれど、それだけでは乗り越えられないことがある、ということをハイキューの登場人物たちはさまざまな経験から学びます。

バレーボールをそのまま続けていく人も、そうでない人にも、その後の人生があります。
ハイキューでは、高校卒業後の彼らの人生もまた丁寧に描かれます。
たとえ、高校を卒業し、バレー部員ではなくなっても、彼らの人生はまだまだ続くということ。
そして、バレー部員として積み重ねた努力が、その後の人生の糧となるであろうということ。

そのことを物語を通じて、私たちは感じることになります。
何かに本気で努力したことは、その結果がいかなるものだったとしても、その後の人生に光りをもたらす。
バレーに限らず、何かに打ち込んでいる人、打ち込んだことのある人、打ち込もうと思っている人、
それぞれにとって、この作品が持つメッセージは、大きな支えとなると思うのです。

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