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プロット通りに小説を書けない理由とギャンブル依存症は似ているかもしれない

・ドーパミンに脳を焼かれる


ここ最近、自分はギャンブル依存症になってしまったんじゃないかと心配になっている。

というのも、小説の取材を兼ねて少額で遊んでいた仮想通貨で大勝ち(人生が変わるほどの大金ではない)してしまってからというもの、どうにも何かに取り憑かれてしまったような気がしてならない。

最初は取引所の口座が1パーセント(数十円程度)増える勝ちでも満足していたのに、大勝ちを経験した後では数千円の上下では脳がピクリとも揺れてくれない。
大勝ちの快感が脳に焼き付き、感覚が麻痺してしまった感じだ。

そう言えば聞いたことがある。
ギャンブル、例えばパチンコなどの依存症にはドーパミンという快楽物質が深くかかわっているという。

ギャンブルに依存する人々のほとんどは、ギャンブルが長期的に見ればお金が減っていく勝負だということを理解しているという。

むしろ、基本的には損をすると理解しているからこそ、小数点以下の%で起こる「予想を外れた大勝ち」の経験が脳に焼きついて、普段の勝負にもそれを期待してしまうのだ。

問題は、ドーパミンが「勝った時」ではなく、「勝てるかもと思った時」に出るということ。
つまり「負けていてもその内勝てるかもしれないから気持ちが良い」というシチュエーションも発生してしまうわけだ。
パチンコやガチャなど、ランダム性があるコンテンツのミソはこういうところにあるのではないか。

恐ろしい。きっとこのまま相場の世界に長居すれば自分も似たような沼へとハマっていくのだろう……
そう思った自分は仮想通貨に入れ込み過ぎるのはやめて、得たお金でお絵描き用のIpadを買い、自分で表紙も描ける神絵師小説家を目指そうと思い始めていた。

が、そんな時にふと気が付いた。
自分は既にドーパミンにどっぷりと脳を支配されているのではないか、と。

それも、自分の核を形成している「創作」で……

・プロットの通りに小説が書けない


小説を書くようになってから早10年とちょっと。
最近になってようやく、どうやらプロットというものを書くと良い小説を書けるらしいということが理屈で理解できるようになってきた。

プロットとは、小説を書き始める前に作っておくレシピのようなもの。
「こういう出来事をこのキャラの視点で描こう」とか、
「キャラクターの二面性をこういうエピソードで示そう」とか、
「このシーンでは一旦イヤな気分になってもらおう」とか、
そういう小説のあれこれを予め決めて書き記しておく設計図だ。

当然、何も考えないで書くよりも読みやすく面白い作品が出来るはずだ。
「早く本文を書かせてくれ!」という気持ちになるまで煮詰めたプロットは、眺めているだけでも良い気分になれる。

しかし、そこまで準備して書き始めても、本文を書いていると手がピタリと止まってしまう。
全然、まったく、一ミリも、ぜんっぜん楽しくない。
脳がピクリとも揺れない。

プロットの時点で書いてて楽しいなら、そのまま本文を書くのも楽しいはずなのに。

そこで、不安になってプロットを壊したり逸脱してみたりする。
プロットには無かった人物を投入してみたり、勝つべきところ負けてみたり、先が予想できなくなるような思い付きの要素を本文に付け足していく。

すると、不思議なことにまた楽しくなってくる。
「ってことは、やっぱりプロットが良くなかっただけで、今思いついたままに書いていけばきっとうまくいくぞ!」
そう思ってノリノリで書いていった果てに、物語は脱線し破局する。
ごくまれにぴったりハマることはあるが、それはごくまれな出来事であり、確率を努力で上げられるようなものではない。
時に数カ月以上かかる執筆作業のコストを賭けた上でするには、あまりに期待値が低い博打だ。

どうしてこんなことになるのだろう。

おそらくプロットが無いor無視した状態で創作をする時、自分はドーパミンに酔っているのだと思う。
プロットを書いた時点で、小説内で起こりうる面白さのおおよそは予測済みになってしまっている(少なくとも筆者はそう思っている)。
その通りに書いたら、その通りの面白さにしかならない。
しかしプロットを捨てれば、想定していた良さは出ないかもしれないが、自分でも予測できない良さが出るかもしれない。

実際、部分的には話が面白くなる瞬間もある。
ギャンブルで言う「大勝ち」だ。
その気持ち良さが脳に焼き付いてしまった結果、その大穴ばかりを狙うようになり、ずるずると全体の舵取りがおかしくなっていくのだろう。

大勝ちの経験に狂わされて大局を見失う、ギャンブル依存症と同じ現象だ。


・ワクワク感とどう付き合うべきか


そもそも、自分は「ワクワク感」を作るために創作している。

例えば『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』の冒頭、暗い祠を抜けて世界に向き合った時。
例えば『ホロウナイト』の中盤で、謎めいた世界で目指すべき3つの封印が地図に追加された瞬間。
例えば『エルデンリング』の序盤で、倒すべき半神たちの所在を百智卿から伝えられた時。

そういうこの上ない「ワクワク感」も、味気ない言い方をしてしまえば「未知の体験をできるかもしれない」という期待から分泌されるドーパミンの作用だ。

書いていて気付いたが、自分は完全に「ワクワク感」によってもたらされるドーパミンの中毒者だ。

よりよい創作をするためにはドーパミンの誘惑を断ち切らなければならないが、そもそも創作の主目的がドーパミンを作り出すこと。
そんな「ねじれ」が起きている。

多くの娯楽依存症も、似たような構図だろう。
楽しまなければやってられないが、娯楽そのものに溺れると破滅する。

では、どうすればいいのか。

恐らく、簡単な解決策は存在しない。
依存症治療の分野で行われているように、正しく依存の形態を理解し、理性と照らし合わせてドーパミンと付き合っていく他ないのだろう。

どんなに執筆中に心が動かなくなっても、プロットは守ろう。
プロットを破壊する気持ち良さは元のプロットを知っている作者だけのもので、読者には絶対に伝わらないのだから……(自戒)

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