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3年前、話題になった「君たちはどう生きるか」を覚えていますか?


おはようございます。

#KENMAYA です。

ちょうど今から3年前、1937年の吉野源三郎作の小説「君たちはどう生きるか」を原作とした漫画本が130万部も売れた、と話題になりました。


あれから3年、まさに今、わたしたち大人が「どう生きるか」という、
人生の根本的価値観を揺るがす時代になりました。
本来若者に向けて書かれた本書ですが、現状(わたしを含め)多くの大人が人生の迷子になっています。
そんなわけで、売る前にもう一回読んでみました。

※ 本記事は読書感想文ではありません。わたしの独自解釈です。


1.僕たちは自分で自分を決定する力をもっている


本書を一言でまとめるならば、この一文に全てが凝縮されています。

人類史において、今まで普遍的な価値とされてきた、
自由、平等、平和、そして友好。
これらが今危機に瀕しています。

賢い者だけが生き残り、
愚か者は虐げられ、踏みにじられ、そして死んでゆく。
今までかろうじて機能してきた、社会保障や相互扶助の精神はどんどん崩れていっています。誰かを助けるために差し伸べられた手は、雑踏の中軽々と踏みつけられていくのです。

わたしたちは余りにも「進化しすぎた」のかもしれません。

野生の象ですら、仲間が沼にハマったら皆で協力して助けようとします。
現代では、行き倒れた人を見ても皆が遠巻きにして、見て見ぬ振りをし、
あまつさえスマホで写真を撮りだす人までいます。

独善と利己主義の行き着く先がまさに現代です。
喧嘩は負けた方が悪い。いじめはいじめられる方が悪い。
騙されるのは騙された方が悪い。
全て現実に起きていることです。国家レベルでも同じことが言えます。

こんな混迷を極めた世の中に、
自分で自分の人生を決めることなど到底無理だと思う人も多いでしょう。
神にすがりたくなり、成功者にすがりたくなり、
ひとときの安心を得たくなる気持ちはよく分かります。


2.大義なき人生に意味はない


ドイツの哲学者ハイデッガーは、

人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、
 生きているということを実感することもできない

と言いました。
これは正しく真理であり、「死」があるからこそ、「生きる」意味を見い出すために、人は生きているのであります。


わたしは三島由紀夫先生の仰った、

人間の生命というものは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬ、というほど、人間は強くないんです。というのは、人間はなんか理想なり、何かのためということを考えているので、生きるのも、自分のためだけに生きることには、すぐ飽きてしまう。
すると、死ぬのも何かのため、ということが必ず出てくる。それが昔言われていた「大義」というものです。そして「大義のために死ぬ」ということが、人間のもっとも華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられていた。
しかし、今は大義がない。これは民主主義の政治形態ってものが、大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なのですが、それでも、心のなかに自分を超える価値が認められなければ、生きてることすら無意味になる、というような心理状態がないわけではない。

(引用元)


「生の倦怠」と言う言葉を噛み締めているのであります。


現代的な「大義」とは一体なんでしょうか。
医療従事者は目の前の「人命」を救う「大義」があります。
それは現代においても、最も崇高なものであり、称賛に値するものです。
他にも優秀な方々は「大義」を持って勇気ある行動をしているのでしょう。

しかし、わたしのような持たざる者、一市民はどうでしょうか。


3.一市民の大義


結論から言ってしまえば。
持たざる一市民の「生きる大義」とは、
「手を取り合うこと」だと考えます。

他者より秀でた才覚や能力がない一市民として、
自分より優れた者に嫉妬しても、
自分より劣った者を馬鹿にしても、
自分と考えの違う者に対し怒り狂っても、
その生き方に「大義」はないものと考えます。

「同調圧力」などと揶揄する方もいますが、
分断を煽り、争いを生むより余程マシだと思うのです。

他者を理解し、許容し、寛容する。
いつか固く手と手を握りあえる日常が戻ることを信じて。
そしてわたし自身、「生きる大義」をそこに見出しているのであります。


ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

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