見出し画像

おはようございます。

#意識低い系社長  です。

今日は仕事なんですが、朝からこんな話題で書き始めて大丈夫か…?と思うところはありますが、やはり、定期的に話題になるのでわたしの考えを書いておきたいと思います。


1.優生思想

画像1

身体的、精神的に秀でた能力を有する者の遺伝子を保護し、逆にこれらの能力に劣っている者の遺伝子を排除して、優秀な人類を後世に遺そうという思想のこと。優生学の成果に立脚する。人種差別や障害者差別を理論的に正当化することになったといわれる。

優生学は、ナチス政権による、優生学に基づいた大量殺人・虐殺、強制避妊手術の正当化などの倫理的問題を大きく抱えることから、現代においてタブーとされています。

わたし自身、人類の多様化において優生学は危険思想だと認識しています。そもそも生命に優劣をつけるのは人間のエゴです。他国の食文化に文句をつけたり、過激派ヴィーガンが肉食を否定したり、津久井やまゆり園の事件もそうです。人間は空気だけでは生きていけないのですから。


2.尊厳死


優生思想と混濁して捉えられることの多い、尊厳死ですが、わたしの解釈は異なります。

尊厳死とは、人間が人間としての尊厳を保って死に臨むことであり、インフォームド・コンセントのひとつとされる。安楽死や蘇生措置拒否と関連が深い。
末期がん患者など治癒の見込みのない人々が、クオリティ・オブ・ライフと尊厳を保ちつつ最期の時を過ごすための医療が終末期医療である。QOLを保つための手段として、胃瘻の除去、苦痛から解放されるためにペインコントロール技術の積極的活用が挙げられる。無意味な延命行為の拒否については、実際に死を迎える段階では意識を失っている可能性が高いため、事前に延命行為の是非に関して宣言するリビング・ウィルが有効な手段とされる。

(上記wikipedia「尊厳死」より引用)

日本では、国民的な支持はあるものの事前に本人による嘆願や希望で治療を止めたことで、親族などから殺人だと訴えられる可能性があり、他国と異なり立法議論すら封じられてるために尊厳死を認める法律がありません。

ちなみに、2001年でオランダで世界ではじめて安楽死を認める法律が施行され、スイス、ベルギー、ルクセンブルグ、イタリアなどでも尊厳死を認める法律が整備されています。

当事者本人が尊厳死を事前に希望する自発的安楽死に対して、安楽死処置を行った医師らが嘱託殺人などで起訴・逮捕されるという事件が先日報道されました。

安楽死を希望した女性はALS(筋萎縮性側索硬化症)と呼ばれる難病を患っており、かねてより死を希望していたといわれています。


3.優生思想と尊厳死


優生思想は、親であれば、少なくとも一度は思うであろう、「うちの息子・娘には勉強を頑張って賢くなってほしい、立派な大人になってほしい」という発想を、突き詰めて、煮詰めていくと「優生思想」になってしまいがちです。

例えば、「付き合う友だちを考えなさい」、と親に言われた経験のある人は多いはずです。親が子に与える影響は絶大で、親の思想は子に大きく影響します。

資本主義という競争原理社会に産まれた以上、産まれた瞬間から競争は始まっているのです。多様性や優劣を認めない社会は不寛容であるのと同時に、競争も否定してしまうことになるので、資本主義が成り立たなくなってしまいます。

ですので、超えてはいけない一線としての「優生学」の存在は、わたしは認めています。(少しくだけた言い方ですが、優生学一歩手前までの考え方は有りだと思っています。)


逆に、「尊厳死」については、日本はあらゆる意味で後進国です。議論すらタブーなんですから。

わたしは
父方の祖父を脳出血→人工呼吸器で1ヶ月存命後、病死。
母方の祖父は大腸がんを手術で克服、脳出血も手術で克服、あらゆる病気と闘いながら最期は自宅で亡くなりました。

どちらも人間として生き、人間として亡くなりました。

ですが父方の祖父は最期の1ヶ月は目も開けず、口も聞けず、意識もない状態でただ呼吸させているだけの状態でした。当然見舞いも一回きり、死ぬのを待つのみ、とならざるを得ませんでした。
対して、母方の祖父は、もうほとんど自力で立つことができなくとも、力なく私の手を握り、私の顔を見て「元気でやってるか。」と死の直前まで語りかけてきました。そして、亡くなる前日には、自分の娘(わたしからみて叔母)を呼び「今までありがとうな。」と言ったそうです。

どちらが人間として正しい、死に方なんでしょう。正しい、という考え自体がエゴかもしれません。
ですが、わたしは、自分が認知症となったり、人工呼吸器を付けなければ生きられない、となったとき、迷わず「死」を選びたいです。

多くの人が人間として安らかに死にたい、と思ってても大抵は、闘病や苦しい思いをしながら亡くなっていく方が多いと思います。そんな中、まだ元気なうちに「自分の意思」で「尊厳死」を選ぶことは間違っているのでしょうか。


4.最後に


わたしは、36歳にして既に遺書を書いています。

人間、いつ死ぬかも分からないのです。生きていくうちに、もちろん、遺書も随時アップデートされていきます。

わたし自身、食道アカラシアという奇病を抱えて生きています。根治は難しいとされていて、食道がんのリスクも常人の2倍ほどだそうです。

胸痛の発作が治まらないときは胸に包丁を突き立てたくなる衝動もあります。でも息子が成人するまでは死ねない、今はただそれだけがわたしを動かしています。


ここまで読んで頂きありがとうございました。

サポートは不要です