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自由にはわたしの知らない意味があった:日本人なら知っておきたい東洋的自由

自由といえば、「〇〇からの自由」とふつうは考えます。そこには、束縛するものが先にあります。でも、そもそもは読んで字のごとく、「自ら由って立つ(みずからよってたつ)」という意味です。何かに縛られている状態からの脱出ではないのです。

この記事では、自由について考えます。

<目次>
1.西洋的自由と東洋的自由
2.東洋的自由のめざすところ:自由と不自由
3.日常生活への応用

1.西洋的自由と東洋的自由

現代の私たちが理解している自由は西洋的自由です。先に規則などの縛るものがあって、そこから抜け出す。これが西洋的自由です。

一方の東洋的自由には、縛るものはありません。ただ、自分の在り方、自分が自分であることを指します。したがって、規則のあるなしは関係ないのです。

ところで、なぜ東洋文化圏のわたしたちが自由と聞いて西洋的自由を思い浮かべてしまうのでしょうか。それは、明治時代に英語のfreedomを自由と訳したことに端を発するそうです。

「freedom=自由」と訳した明治以降、「自由」民権運動などメディアを賑わす全国規模の運動が盛んでした。こうしてメディアを介し大々的に自由の定義が拡大され、人々の認識に定着し、西洋的自由の意味合いが強くなっていったようです。また、もともと、自由というのは仏教用語だったので正しく知っている人が限定されていたというのも理由の一つだと思います。

この点に着目すると、明治以前からある言葉で自由を用いたものはfreedomでなく、自分の在り方を指しているのだろうと推測できます。例えば「自由自在」なんかは、まさに「自らよって立ち、自ら在る」ですね。

2.東洋的自由のめざすところ:自由と不自由

東洋的自由の観点から不自由を考えます。

東洋的自由とは自分が自分であることです。したがって、東洋的観点からは不自由とは自分が自分でないことをいいます。西洋的観点からは、不自由とは何かに束縛されている状態を指します。

このことから、東洋的自由はあくまで「自分」へ向いており、西洋的自由は「縛るもの」へ向いていることがわかります。

では、東洋的自由における「自分が自分であること」とは具体的にどのような状態を指すのでしょうか。

禅の巨人、鈴木大拙曰く。

松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に往すること、これを松や竹の自由というのである。これを必然性だといい、そうならなくてはならぬのだというのが、普通の人々および科学者などの考え方だろうが、これは、物の有限性、あるいはこれをいわゆる客観的などという観点からみて、そういうので、その物自体、すなわちその本性なるものから観ると、その自由性で自主的にそうなるので、何も他から牽制を受けることはないのである。ーー東洋的な見方 / 鈴木大拙著. 岩波書店

「エゴの無い、ありのままの自分すべて」というのが自由だと私は解釈しています。これはまた、瞑想の目的とするところでもあります。

3.日常生活への応用

自由について色々と考えてきましたが、日常生活において自由が何を意味するかを知ることはまったく重要ではありません。重要なのは、自由を体現することです。本当の自分とつながることです。

そのために禅宗では座禅が用いられます。最近は瞑想やマインドフルネスというネーミングで多くの人が実行しています。私も毎日2回実行しています。

禅の本を読むと、「自由になれたと思ったのなら自由ではない。自由ではないのなら同時に自由である」といった論理矛盾する表現がたくさん出てきます。どうやら真の自由というのは論理では理解できないものであることまではわかりました。

一方で、実際に瞑想をしていると、特に昼に行う瞑想では膨大な数の妄想が浮かんでは消えます。気が付くと妄想にとらわれていたりもします。正直申し上げて、私の理解、経験はまだこの域までしか及んでいません。

しかしながら、現時点の私が言えることがあるとすれば、『燃えよドラゴン』のブルース・リー、『スター・ウォーズ(エピソード2)』のヨーダよろしく、

Don't Think, Feel.   "考えるな。感じろ"

です。

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