東京2020で、アスリートはどのようなメッセージを発信すれば良かったのか?
【オリンピック開催の意義はなぜ広まらなかったのか?】
東京2020大会(第32回オリンピック競技大会)が閉会した。新型コロナウイルスの感染拡大およびその対応を巡り、本当にオリンピックを開催すべきかどうか話題を呼んだ。
オリンピックの意義を問われるたび、それなりに重要な役職に就く(就いていた)人は、「復興」「人類がコロナに打ち勝った証」「希望」「絆」など様々な言葉を生み出した。しかし、ニュースのタイトルにはしやすいが、深みはなく、当然のように多くの人が共有する意義とはならなかった。なぜだろうか?
【価値を伝える】
意義とは、「価値」である。当たり前のことだが、何に価値があり、何に価値がないか、1人ひとり異なる価値観を持っている。好きな歌手のグッズを集め、ライブに行くために飛行機のチケットを購入する人もいれば、料理好きな人で様々な調味料を綺麗に並べて満足する人もいる。そして、「あなた、またそんな高い時計を見ているの?この前も買ったじゃない。いい加減にしてよ。」「いやいや、君が買ってそのままクローゼットに眠らせているワンピースがあるだろう?あれの10着分じゃないか。」というように価値観はぶつかる。価値観がぶつかったところで、話し合い、理解を深め、議論を重ね、決定もしくは保留する。つまり、「価値」(意義)は、単に自動改札機に定期券を差し出すように「示す」だけではいけないのだ。「説明」することが求められる。
【意義を説明する】
では、意義を説明するとはどういうことか。「この東京2020大会を開催することで、次のような価値をもたらし、今を生きるみなさんに1人ひとりが大切にされ、今後の社会の在り方を考えてもらいます。」あるいは、「この東京2020大会を開催すれば、次のような価値をもたらし、未来を支えていく人たちに、時代が変わっても、変わらず大事にしなければいけないことがあることを理解してもらいたいと思います。」というような説明こそが、東京2020大会を開催する意義となり得た。さて、それなりの役職に就いている(就いていた)人からそのような意義の説明が1度でもあったのか。誰もが知っているとおり1度も無かった。
【意義の説明から象徴へ】
意義の説明がなされないまま、「復興」「コロナに打ち勝った証」「希望」「絆」などの言葉が提示されると、オリンピックの開催目的そのものが、「意義」ではなく、「象徴」へと変わっていく。「『コロナを収束させた』『震災から復興した』記念にオリンピックを開催させます!」「あ、そうなんですね。」というように、「象徴」はピリオドなので、それ以上深めようがない。オリンピックの開催に賛成か、反対か、あるいは延期か議論が深まらなかった原因はここにある。
【象徴としての東京2020】
政権は、東京2020を開催することで、支持率を上げたかったようだ。(『JNN世論調査、五輪開催「よかった」61% 内閣支持は過去最低』https://www.youtube.com/watch?v=FXH_L7e9EOI)しかし、思い通りにはならなかった。ただ、「2020大会を開催してよかった」と答えた人は6割にのぼっていることから考えると、新型コロナウイルスの感染拡大はあったものの、方法によっては、東京2020大会の開催によって、政権の支持率も上がった可能性があったのではないかと考える。そのヒントは、東京2020大会が「価値(意義)」を説明できない「象徴」となってしまったことから、象徴の最たる存在であるアスリート、もっと言うと、より発言権があるメダリストが握っていたのであろうと考える。
【アスリートは何を言えば正解だったのだろうか?】
オリンピックに出場したアスリートがインタビューで何を答えたのかを振り返ると、内輪に向けた語り口が多い。お世話になったコーチ(先生)、家族への感謝、あるいは自分がいかに努力をしたか、あるいは楽しんだか。「亡き誰々のために」のような言葉は、ニュースにはなるかもしれないが、「良かったね」で終わる。「開催していただいて、ありがとうございました」の言葉も同様に残念ながら空虚である。「僕らの姿を見て、何か感じるものがあれば…」という内容は悪くはないが、社会に歩み寄る姿勢が見えず、象徴としての役目を果たしていない。では何を言えば正解だったのだろうか?
東京2020大会は、最初から最後まで新型コロナウイルスだった。延期、変更、混乱…すべてが新型コロナウイルスの影響を受けた大会だった。そのため、新型コロナウイルスをテーマにすることは自然なことである。そして、コロナに打ち勝った証という象徴ならば、次のようなスピーチが考えられる。
「今、この瞬間も新型コロナウイルスの感染拡大により、仕事を失い途方に暮れる人、愛する人を失った人、あるいは同じ家に住む人からの暴力に怯える子どもたちがいます。このような方々を含めた全ての人からお力をいただき、目標を達成することができました。私から全ての方々に、心の金メダルを贈りたいです。」
この内容のどこが重要なのか。「社会の一旦であるアスリート」の「象徴」としてメッセージを伝え、社会に歩み寄っている点である。「復興」という象徴を用いるのであれば、同様に「社会の一旦を担う存在」の「象徴」として社会に歩み寄る内容を考えれば良い。自分が努力したこと、感謝を伝えたい人だけを羅列するのではなく、大会の象徴として、スピーチすることがポイントである。
【アスリートの今後の在り方】
「何もアスリートがここまでしなくても」とう意見が出てきても当然だ。しかし、然るべき役職にいる人が、混乱する情勢の中で大規模な大会を開催する価値(意義)を説明できず、「象徴(記念)」としての開催になっているのであれば、アスリートには「象徴」としての責任が伴う。その責任を果たすことができたアスリートは、残念ながらいなかったように思う。社会が変化していく中で、アスリートに求められる役割が変わってきていることは間違いない。だからこそ、各協会や連盟においては、積極的に「社会に歩み寄る姿勢」「果たすべき社会的責任」をアスリートに教えなければならない。そして、できれば全ての種目で、スピーチライターや記者会見、インタビューをに関するコーディネイターをきちんと設置する必要がある。アスリートが社会を分断しないために、あるいは、アスリート自身が、社会から孤立しないようにするためである。
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