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前提を疑うということ

世界中の大多数の人が、一度も疑わないで一生を終えるのではないかと思われる前提がある。

1.家族は、普通、仲が良いものだ。
2.親は、普通、子供を愛するものだ。

でも……

家族が仲が良いものだというのは、一体、誰が決めたものなのでしょうか?
親は子供を愛するものだと、どこで証明されているのでしょうか?

世界中で、虐待やDVの事例がこんなにも多く報告されていて、その反証となる事実がこれほどあるのに、その前提を疑うことがないのは、私には狂気の沙汰としか思えないのです。

誰が決めたのかも、どこで証明されているのかもよく分からないことを、真実だと思うから、おかしなことになるのではないでしょうか? 仲良くできない家族があった時に、子供を愛せない親であった時に、苦しむことになるのです。

仲がいい家族もいれば、仲が悪い家族もいる。
子供を愛する親もいれば、愛さない親もいる。
ただ、それだけのことなのではないですか?

人間なのだから、親が子供のことを、どうしても性格的に好きになれない、ということだって、あるのではないですか?
こっちの子供より、あっちの子供のほうが好きということだって、あるのではないですか?

そのことを認めないで、いつ何時でも「親は子供を愛してる」という変な隠蔽の仕方をするから、反動で、おかしなことになるのです。

家族が仲良くできないこともある。
親が子供を愛せないこともある。
その前提から出発すれば、「どうすれば仲の良い家族を作ることができるのか?」「どうすれば愛することができるのか?」を真剣に考えざるを得なくなると思うのです。

結婚して、子供が生まれたというだけで、自動的に仲の良い家族になれるわけじゃない。一緒にいたい人と、一緒に幸せでいるために、作り上げていくのが家族。

でも、片方だけが頑張って努力しても意味はないわけで、そして、双方の前提があまりも違っていたら、どんなに頑張っても無理なものは無理なわけで。

どんなに頑張っても、どうしても無理なら、離れるべき時が来たのだと、お互いのために、解散すればいいのではないですか?

もし、家族として出会っていなかったら、絶対に一緒にいたくはないような人と、どうして付き合い続ける必要がありますか?

もし、「友人」だったら、「恋人」だったら、奪われ続けるだけの人とは、離れたほうがいいと言うのではないですか?

それなのに、「家族」になった途端、何があっても踏みとどまるべきことになるのは、なぜですか?

子供は生まれてくる親を選べない。

その選べない状況がひどいものだった場合、なんとか適応して生きていくしかないわけです。

私の母親は先生だったので、表面上、他の専業主婦の人に比べて、「自立」していたし、夫を超すほどの収入だった時もあるかもしれないけれど、家の中はしっちゃかめっちゃかだったし、幸せとはほど遠い生活でした。

そういう家の中の生活での「適応」が、家の外では多くの場合「問題」を引き起こします。

だから、私は今思えば問題だらけで生きてきたと思いますし、小さい頃から、家族とか幸せとかについてよく考えていたわけです。というか、考えざるを得ない状況だったわけですが……

ここ最近で私に起きた出来事は、その何十年も考えてきた私の結論が、もうどうにも無視できないほどになり、私がなりたい姿と、なりたくない姿を、好きな人と嫌いな人を、好きなものと嫌いなものを、はっきりと教えてくれた出来事だったのかもしれないと思います。

幸せは、表面的な、なにがしかとは、全く別のところにある。

小さい頃から、思ってきたことだけれど、
そのことを心に刻んで、自分の道を歩いていくために。
私は私の心地よさを大切にして、私の歩幅で一歩一歩生きていきたいと思います。


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