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ボロボロになったおはなし

先日まで心身共にボロボロであった(今もその名残はあるような気もするが)
なので、文章もボロボロである
(※伝えるより整理の意味合いが強いので読む際には字面だけ追って欲しい)

鏡に映る自分は何も変わらない、部屋にキノコが生えている訳でもない。健康診断なら異常なし、精神面も比較的良好らしい。

それでもボロボロだった。

それはそれは過去ぶっちぎりの崩壊具合である。外側は普通に見えていたが、内側は警告灯が騒々しくアラートを鳴らしていたし、漠然とこのままでは潰れると感じた。ヒトの形をした何か別のモノのような感覚だったし、支離滅裂な発言を繰り返していたようだ。一体何に切羽詰まっていたのかもあまり思い出せないが、生きることよりその先を考えがちな自分が生き急いでいた、とても生きていた。

原因は(おそらく)自分で自分を気付かぬうちに追い込んだことである。

(※以下は言い訳のような分析なので読み飛ばして欲しい)

人生の夏休みとも呼ばれる期間に突入してから、時間を無駄にしたくなかったのか夏休み明けの「夏休みの思い出」の発表におけるネタ探しをしたかったのか、好奇心のままに従った結果なのか断定はできないが、何かしらの活動に関わっていた。きっかけは夏休みの限られた時間の有効活用のためだったと記憶しているが、いつからか有効活用「した方がいい」から「しなければならない」に変わったようだ。自己紹介で話せるようなキャッチーなものを持ち合わせていない自分に対して焦りを感じていたのかもしれない。「しなければならない」に変わった瞬間から、自然体で接することを控え始めたように思う。社会的と表現するのだろうか、表向きの人格で活動し始めたのである。夏休みとそれ以外に片足を突っ込みつつ進むことで得られるものは数えきれないほどあったが、同時に疲弊していった。表向きの人格を脱ぎ捨てたあとはひたすらに寝込み、それ以外は疎かになった結果ボロボロになってしまったらしい。余裕がなく、気力で生きていた。

自分の味方は自分しかいないというのに、その自分すら味方であろうとしなかった。それどころか他人に助けて貰おうとした。何て烏滸がましいのだろう。

ただ、自分と同世代の人と世間話以外のことも話す機会があったことは救いだったと思う。顔と名前は知っているけれど実際に会うのは半年後、という経験は初めてであり、同じ立場の同世代と短い期間で話せている自分がいることに驚いた。バックグラウンドや趣味の共有をせずに同じ場所で同じ時間を過ごすことは想像していたより居心地が悪くなく、むしろ良かった。
なんでこんなことを話しているのだろうと思いつつも溢れる言葉はなかなか止まらなかった。それらに対して興味を持ち受け止めてくれた存在があったことに驚き半分、嬉しさ半分、そして沢山救われた。

ボロボロになって色々気づいたことがある。

① まだ限界ではないこと
② 人と話すこと
③ 他人はあくまで他人であること
④ 棺桶に入るときのこと

若干、いやかなり言葉足らずであるがマイナスの意味は含まれていない。

安易に「ボロボロになってよかった〜〜!」とは言えないが、遅かれ早かれ起こるイベントだったのだろう。そして自分の人生において起こることには何かしらの意味があると考えているので本イベントも何らかの意味があるのだろう。まだ氷山の一角どころの話ではなく一欠片くらいではあるが、ぼんやりと輪郭は見え始めていると思う。あと数十年の人生をかけてのんびり見つけていくとしよう。

最後に、自分は運命について「予め定められているもの」や「自分で切り開くもの」とも思っていない(捉え方が時と場合に左右される)が通るべくして通るものだったなら面白い、一本取られた気分だ。

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