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「選択のある自由か」、「選択のない不自由か」どちらを生きるかもまた自由

—–富・名声・力。この世のすべてを手に入れた男、海賊王ゴールド・ロジャー。彼の死に際に放った一言は、人々を海へ駆り立てた。

「俺の財宝か?欲しけりゃくれてやる!この世の全てをそこにおいてきた!」

男達は、グランドラインを目指し、夢を追い続ける。
世はまさに、大海賊時代!

こんな謳い文句から始まる「ONE PIECE」ですが、何かを追うという行為は人を選択の海に飛び込ませます。夢を追うことは決まった日常からの脱却を意味することなのかもしれません。

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さて、今日は、昨日の宣言通りに安部公房『砂の女』感想です。

「昨日?お前は何を言ってるんだ?はじめてお前の記事を読みにきてるんだぞ??」と言う方、ありがとうございます。

簡単に内容を言うと、昨日本当は書くはずだったんですが、小島秀夫監督について気付いたら書いていました。興味があればどうぞ…。

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人は前触れのない理不尽な不自由を強いられた時、自由を欲するものだと思います。

冤罪でいきなり捕まって刑務所に入れられるようなことがあれば、「ショーシャンクの空に」さながら脱獄を試みるでしょう。

しかし、刑務所に、捕まっていた方が楽だからわざと何度も犯罪を起こして捕まり続けてしまうときくことがあります。監獄の外で生活は保証されていません。出所したならば、自分で職を探し、働き、お金を得て自らの生活を成り立たせなくてはなりません。

その苦しさに葛藤したのが、ショーシャンクではブルックスであり、レッドでした。彼らの場合獄中生活も長くすでに居場所がシャバから獄中になってしまっていることも大きなことな気がします。

『砂の女』はまさに、アンディがレッドになる話といっても過言ではないかもしれません。

不自由な楽さは、時に人を癒し、人が羽ばたく力を奪うものでもあるのかもしれません。羽を怪我した鳥が地上で休養しているうちにその生活に慣れて、飛ぶ必要を感じなくなってしまうということでしょうか。

でも不自由に安寧することがどうも悪いようなことでもないんじゃないかとふと思ったりするわけです。

作中にこんな言葉があります。

孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである。

何かを求めた瞬間に人は渇きを覚えます。求めること、これすなわちその場にないことを指すからです。

渇きを生んでしまうほどに求めて固執すべきようなモノは、実際はないんじゃないかと感じます。何かよくわからない焦燥感にひりつかされて、富、名声、力を求めますが、それは幻想に過ぎず、霞を掴むようなものなんじゃないかと。

「あの人が居なくなったら、無理。仕事が絶対に回らなくなってしまう。」そんなあの人が仮に辞めても、案外日常は続いて、仕事もなんのことはなしに回り続けるように。

執着と固執、拘っていたことも一度手放してしまえばたいしたことがない。まやかしだからです。今書きながらIKKOが脳裏にちらついてちょっと悔しい気持ちになってます。

この回り続ける地球の中で何かを固定化しようということが愚かなことなのかもしれません。「それでも固定したいと思うのがサガじゃないか!」と思いつつ、「何も考えずに流されたい」と思う、この相反する感情が寄せては返すのが人生か…なんてことも思ったりました。

何かを求めて、渇き、それをたとえ掴んだと思っても、やがてすぐに次の乾きがやってくる。一枚だけと思ってたポテチは一枚で終えることは不可能です。達成感は、一瞬の閃光になって消えていく、それこそ砂が掌から音もなくこぼれていくように。

何が正解なのか。拘り求めるのか、何も求めずただ流れるのか。そんなことを『砂の女』は問うてきてるんじゃないかと思いました。

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なるべく毎日書くといったnoteは今日で46日目でした!

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