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『そうなったらそうなった時のことだ』

タイトルのこの言葉を座右の銘にしている。誰に聞いたというものでもない。普通の人が普通に生きていれば至る普通の感覚だと思っている。だけどこの境地を僕は大切にしている。

僕は昔からずっと『今この瞬間』を意識して生きてきたという訳じゃないけど、この言い回しだけは口癖にしてきた。

生きていれば必ず、荘厳とも言えるような時期を迎える。その時期を見て感じて乗り越えて、人は大きくなっていくものだ。
そこまで大仰なものでなくても、苦難の時や悲しみの時は生きていれば極めて多い。僕もしばしば経験してきたことだ。
その時は大変極まりないほど大変だった。自分の手に負えない事態だったことも多かったし、その結果心身の不調に陥ったことも少なくない。

だからこの『その時のことだ』という感覚は、ともすれば少しばかり危険なものになりがちだ。心の準備ができないことに繋がるし、不測の事態に慌てふためくことも多い。
そのため、こんな感覚は手放した方がいいのかもしれない。そう言う人も少なくないだろう。
『そんな考えは甘い』『だからお前は駄目なんだ』的なことを僕に言う人もいたし、これからもいるかもしれない。その人はその考えでいいと思う。

だけどこの感覚は神経過敏なところのある僕には大切なものなのだ。不必要なまでに先を見据え、不必要なまでに不安になり、不必要な心身の不調をきたすぐらいなら、むしろその不測の事態に出くわしたときに不調をきたすほうが僕はマシだ。

一番いいのは、不特定のさまざまな不測の事態に備えて先手を打ち、その時のダメージをなるべく小さくできるようにいつも備えることかもしれない。こうすれば具的的な取り越し苦労をなくし、しかも効率のよいリスク管理ができる。

だけど僕はそれができるほど器用ではない。神経過敏な僕がそれをやったら、だんだん不特定の事態が具体化され特定されてしまう。そして上のように『今存在しない不測の』事態を『前もって苦しむ』愚になるのである。

だから『今』を意識するとしないとにかかわらず、僕は上のスタンスをこれまで大切にしてきたし、これからもそうするだろう。

今読んでいる『魔の山』では次のようなことが書かれている。
「生きている間は死は存在しないし、死んだ後には生は存在しない。だから自分にとっては存在しない死を想像して思い悩む必要はない。そういうふうに生物はもともとできている」

確かに自分の死を自分から進んで考えることは、特別なケースを除いてはない。ならそれを死だけでなくあらゆる困難にも敷衍させよう。
どんな取り越し苦労のネタも、少なくともそれを考えている時には存在していないことなのだから。

そう思って僕は気楽に生きている。あるいは気楽になろうとして生きている。これは側から見たらよくないことなのかもしれないが、僕にはそうするのが精一杯なのだ。

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