[掌編]エントリーシートの男
夕方になると私が帰ってきた。高校生のときにサッカーで全国大会に進み、大学に入ってからは海外ボランティアにも取り組んだ私は、黒いスーツの埃を払いながらただいまといった。
「今日は三社もはしごしたから、さすがに疲れたな」
鏡の前で着替えながら私がいう。大学に併設されたジムに毎日かよっているだけあって、二の腕がたくましい。
「今日は森ビルだっけ?」
「そう、森ビルのグルディス。そのあと旭化成とトヨタのリク面。やっぱりふつうの面接がいちばん楽かもしれないなあ」
私の後ろを通るとき、ふと鏡に同じ顔がふたつ並んでいるのを見て恐ろしい気分になる。私があらわれて二ヶ月が経つとはいえ、いまだに慣れない。
三月に入っていよいよ就職活動を始めなければならなかった私は、とにかく焦っていた。授業にもろくに出ず、酒と煙草におぼれるような生活を送っていた私に「学生時代に力を入れて取り組んだこと」などなかった。
仕方がないので、漫画から得た知識をたよりに高校でサッカーをやっていたことにした。それが案外うまく書けて、書類選考を通過した。それから私は海外ボランティアや長期インターン、日本一周に事業立ち上げとさまざまな経歴を生み出していった。
三月も半ばの、ある冷えた朝のことだった。身もこおる寒さに気がかりな夢から目ざめると、ベッドの脇にだれかが立っているのに気づいた。私と同じ顔をしていた。ただちょっと私より身体が引きしまっている。そうして私との共同生活が始まった。
私は部屋にこもってエントリーシートを書き、私が面接に向かう。あらゆる経歴をそなえた私はほとんど負け知らずだった。
私の筆によって、私はどんどん発達した。TOEICで980点を獲得したと書いた日の翌朝、私は英字新聞を読みながらコーヒーをすすっていた。ディベートの大会で賞をとったと書くと、途端に私の話し方が明晰になる。
ただ、選考に落ちるとそういう能力や経歴は剥奪されてしまうようだった。一度ラテン語を学んだと書いたことがあったが、書類選考で落とされたために私がラテン語を話し得たのはたったの二日間であった。
「あしたは朝から富士フイルムの面接が入ってるから」
私がみそ汁の椀をかたむける。帰りは何時ごろになるのかと訊ねると、夕方からの選考が長引くかもしれないからわからないという。こういうとき、私は外泊してくることが多い。私がどんどん私を磨きあげてゆくために、私は選考で知り合った異性の気すらよく惹いた。
案の定、翌日の夜に私は帰ってこなかった。そのまま翌朝の面接に向かうと連絡があった。私はホテルの一室に響きわたる喘ぎ声を想像していらだちを募らせた。
次の夕方になって帰ってきた私は、開口一番に東京海上日動火災に内々定をもらったと報告をした。私はおもわず涙をこぼして、私に抱きついた。私の首筋ににじむ桃色の痣も気にならなかった。
六月に入ると、いよいよ私の手許には三菱商事、野村総合研究所、三菱UFJ銀行、JR東日本、味の素、電通、集英社といった大手企業の内々定が集まりはじめた。あとは自分で選ぶから、もう就活はやめていいと私にいった。
「自分で選ぶって?」
私は怪訝そうな顔をした。私はなんとなく気まずくなって、そういえばこのあいだの夜をともにした相手とはどうなったのかと話題を逸らした。
「ああ、あれね。付き合うことになったよ」
私はスマートフォンを取りだして、写真を提示してみせた。仔犬のような顔をしていた。相手も就活生であるらしく、ビジネスコンテストで何度か優勝を経験しているため選考も順調に進んでいるという。
夕飯を食べ終えた私は、これから相手の家に泊まってくるといって出かけていった。玄関を出るとき、思いだしたように「やっぱり三菱商事かなあ」といった。
そこで私はようやくおそろしい可能性に思いあたった。なんとなく就職活動が終われば私は消え去るものだと思っていたが、このまま私が私の代わりに会社を選び、就職し、結婚していくのではないか。そうすると私は、居場所をうしなってしまう。
翌日の午後になって私が帰ってくると、私は新しくエントリーシートを作成した。「これまでの人生で最も困難だった経験」という欄に、「私は幼少期に事故に遭って以来、脚を悪くしてうまく歩けません」と書きだした。現在も外を自由に出歩くことはかなわないが、それでもどうにか工夫して生きているのだと締めくくった。
果たして、翌朝をむかえると私は部屋のすみで脚を抱えてじっとしていた。恨めしげな目で私をとらえている。額が汗でぬらぬらと光っていた。
夜になると、私は私の代わりに出かけた。相手は中野に住んでいるという。駅の改札を抜けるとひとりの男が駈けてきて、すばやく私を抱きしめ、挨拶のようにキスをした。それからふと不安そうな面持ちになって、
「あれ、美恵子、なにかかわった?」
私は返答にこまって、彼の唇をふさぐように唇を押しつけた。彼の家は案外ひろかった。ベッドの隣りに三人掛けのソファが並んでいる。薄型のテレビにはニュース番組がながれていた。
部屋の灯りを落としてシャツの内に手をのばしてきた彼は、私の首筋に視線をとめてやっぱりおかしいといった。
「美恵子はもっと、なんていうか、全体的にハリがあったよ、健康的に引きしまっててさ。それに話していても頭のよさが伝わってくるはずなんだ」
そのとき薄暗がりのなかでクローゼットの扉がひらいて、黒い人影がぬっとあらわれた。彼があわてたように馬鹿ッ! と叫んだ。照明が点けられて、彼とまったく同じ顔をした男の姿が浮かびあがった。
「その娘はおまえの知ってる美恵子ちゃんじゃないよ。きっと、おれと同じなんだ」
私はおそろしくなって部屋を飛び出した。階段を駈けおりて、街灯のない道を走った。同じ顔の男のふたり並んだ光景が、脳裡に生々しくよみがえる。私は結局、似た者どうしで恋愛をしていたのだ。
遊具のないちいさな公園にたどりついた。生い茂る草のなかに木製のベンチが埋もれている。このままでは私は生きていけない、と思った。私の存在が人びとの記憶にあるかぎり、私は私の劣化版として在りつづける。
薄明が、ベンチに横たわった私を照らした。選考に落ちた場合はエントリーシートの内容が反映されなくなるのを思いだした。すべての選考をなかったことにすれば、私という存在もまたなかったことになるかもしれない。私はどうしても私を消し去らねばならなかった。
午前の十時をむかえると、私はすべての企業に内定辞退の連絡をするためにスマートフォンをにぎった。
一銭でも泣いて喜びます。