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リーザの涙〜歪められたブチャ〜 ウクライナ取材

ウクライナ悲劇の街ブチャ近郊付近の取材を始めて一ヶ月。

言葉の壁があり、あまり話したことはないが、顔見知りで、ブチャ取材で一番写真を撮影したブチャの女性がいた。

DSC01434のコピー

彼女は毎日キラキラした笑顔で戦争で傷ついた子供達の世話をしていた。

子供達も彼女と遊んだり、話している時はキラキラした笑顔で笑っていた。

その美しい光景は悲劇を経験したブチャの希望。

いや、この世界の希望そのものだと思った。

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しかし、ロシア兵の戦車の銃口は彼女の両親にも牙を向けた。

そして、彼女達家族の運命を変えてしまった。

彼女が涙を流したのを見た瞬間、自分の正義がすべきことがわからなくなった。

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リーザの涙〜本当のブチャ〜

ブチャ虐殺

2022年3月、ロシアのウクライナ侵攻によりキーウ近郊の町ブチャ、イルピン、ホストメル、その他の村々はロシア軍により占拠された。

激しい戦闘でブチャ近郊の町や村々は破壊され、

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ホストメルの破壊された集合住宅

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イルピンの破壊された集合住宅

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イルピンの破壊された集合住宅

戦闘に巻き込まれ多くの民間人が負傷し、死亡した。

ウクライナ検察当局によると、キーウ近郊で410人もの亡くなった犠牲者が発見された。

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150〜300の死体が見つかったブチャ聖アンドレ教会の集団墓地


6月2日 悲劇の街ブチャ 取材初日

戦時中とはいえ、ウクライナ首都キーウの街は平和だった。

サイレンが毎日鳴り響くも、人々はさほど気にする様子もなくキーウの街で取り戻した日常を謳歌していた。

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公園では音楽を聴いたり、

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踊りを踊ったり、

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教会で祈りを捧げたり。

戦争に不安を感じつつも、ウクライナの人々は首都キーウで戦争が始める前と同じ暮らしを送ろうとしていた。

しかし、キーウ近郊ブチャに行くまでの道。

キーウからわずか20分ほどバスで進むと、景色は一変した。

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キーウから悲劇の街ブチャへ繋がるホーレンカの街は激しい爆撃で建物は黒く焦げて、崩壊しており、所々片付けられていない瓦礫が散乱していた。

その瓦礫と化した家や店の姿が現実離れしていて、衝撃を受けた。

ニュースではいくらでも見てきた光景だが、実際に目の当たりにしたその光景に言葉が出なかった。まるで、映画の中に迷い込んだかのような気持ちだったが、そんな光景が首都キーウからわずかバスで20分の場所に存在することが信じられなかった。キーウ州にブチャがあることは知っていたが、3月の時点でこんなにウクライナの中枢の近くまでロシアの戦車が迫っていたという事実を目の当たりにして恐怖すら覚えた。

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ブチャ中心部の日本庭園式?のガーデン

バスを降りてブチャの街の中心に降り立った瞬間、一見閑静で小綺麗な街並みに町安心した。郊外ほどは戦闘の被害を受けていないのだ。、、、ロシアのキーウ近郊からの撤退から2ヶ月も経てばこんなものか、、、そう思ったの瞬間、辺りを見回し横を見ると、ロシアの侵略の爪痕がはっきりとブチャの街の中心部にも残されていることに気がついた。

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ブチャ中心部の爆破された集合住宅と、爆撃でえぐれた道路

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ブチャ中心地の爆撃された集合住宅

黒く焦げて、ぐちゃぐちゃになった建物。

ツンとつく、ゴムが焼けたような焦げ臭い、戦争の臭いが未だにする。

ブチャ中心部では広場を囲みロシア軍とウクライナ 軍が激しい戦闘を行なったと住人達が証言をしていた。

ロシア兵は住民達が避難したシェルターがある学校の近くで待機していた。なぜなら、ウクライナ軍の攻撃でウクライナに現地住民が被害を受ければ、それを根拠に政治的にウクライナ軍を非難できるからだ。シリア内戦やパレスチナ問題でもよく耳にする、”人間の盾”と呼ばれる戦法だ。

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写真右の少年はブチャ中心部の学校で人間の盾にされた。砲撃で学校が壊されるか気が気でなく恐怖していたと語っていた。


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街の所々には戦闘の爪痕が残る。

人々は爆撃跡を普通に通り過ぎようとするが、やはり気になってしまうのか途中で横を見て痛々しい爪痕を見ながら歩いていた。

爪痕に必死に慣れようとしているが、以前と違う光景にまだ完全に慣れることはできていないようだ。


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爆撃痕が残る集合住宅の下の階には洗濯物が掛かっている。人がまだ住んでいるのだ。日本でもそうだが、住居は安くはない。簡単に離れることはできない。余談だが、街の90%が破壊され、ロシアに占領されたマリウポリに現在多くのウクライナ人達は戻ろうとしている、家を修理して生活をやり直したいからだ。それほどまでに故郷、家という存在は大きい。

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爆撃れた建物を撮影していると、おばあさんが話しかけてきた。

ロシア語かウクライナ語で話しかけてきたが、取材初日で英語ができる知り合いもいなかったため何を言ってるかがわからない。

最初は街を撮影していることを注意されているかと思っていたら、どうやら違うようだ。

”ロシア人!!”とロシア語で何度も口にして、何かを身振り手振りで必死に訴えてきた。

google翻訳などを使い必死に話を聞くと、どうやら彼女はロシア人に暴力を振られて、首を締められたと必死に訴えていた。

何とか理解できたのはそれだけだった。

あの時点で英語ができる知り合いがいれば、もっとロシア語ができれば彼女の訴えをしっかり聞くことが出来たのにと、あの時のことは今でも覚えている。

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ブチャ中心部の爆撃されたホームセンター

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あの爆撃されたホームセンターを見た瞬間の衝撃は今でもはっきりと覚えている。

人間は建物をこんなに歪ませることができるのかと衝撃を受けた。こんなことは正当化されるはずもなく、許されるはずもない。

そんな、人間の業と破壊的行動に唖然とするしかなかった。

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聖アンドレ教会

ブチャにはロシア軍により虐殺された150〜300人の遺体が埋められていた集団墓地があった教会がある。

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この美しい青空の下に虐殺された罪なき人々が眠っていた。

首がない死体、体がありえない態勢に曲がった死体、目玉が焼け焦げた肉にめり込まれていた死体も存在した。

全ての死体に暴力の跡が存在したという。

この教会はそんなブチャの悲劇の象徴的な場所である。

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優しい笑顔の女性のお父さんの死体も集団墓地に埋められていた。

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彼らがどんな経験をしたのか想像することすらできないが、せめて、安らかに、、、、、

帰り際、ブチャの中心で気になるものを見つけた。

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ユニセフのテントだ。

少しでも話を聞ければと思い、立ち寄っただけなのだが、そこで出会ったのは

キラキラした笑顔のブチャの子供達

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そして、子供を支えるウクライナの人々

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そして、ブチャの笑顔が素敵な女性、リーザだった。

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そんな、ブチャ近郊のブチャ、イルピン、ホストメリやその他近郊の町や村を取材して約一ヶ月。

家を破壊された人、家族をロシア兵に処刑された人、ロシア兵に撃たれた人、占領下の地域でロシア兵による拷問を目撃した人、いろいろな悲劇を聞いてきた。

しかし、それだけではない。

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ニュースでは悲しむ人々、破壊された町、通りに放置された死体、発見された死体、、そう言った映像や写真、または拷問、処刑、、そんな報道ばかりがなされている。

それもブチャの一面であることは事実だ。

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しかし、それだけではない。

そして、ロシア兵の姿も多くの報道とは違う一面があると現地の人の話から垣間見ることができる。

ブチャ近郊を取材して見た”本当のブチャ”。

何かしらの利益のために、歪められたブチャ。

ロシアの戦争を正当化するプロパガンダにも、西側や日本メディアのプロパガンダや偏った報道、日本人の求めるかわいそうなブチャ、利益目的の支援団体がねじ曲げたブチャの人々など都合のいいように語られる現地の歪められた”事実”ではなく、歪められていない現地の方々の本当の姿、思いを皆様にお伝えしたい。

本当のブチャの姿を

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次回 ブチャの地下室〜ロシア兵に連れ去られた男の末路

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