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【映画レビュー】年間250日ほど海の上で暮らすわたしが、パイレーツ・オブ・カリビアンを見直した話

デイヴィ・ジョーンズのように、10年間陸に降りられない訳ではないけれど、100日とか、あるいは200日間海に出たらおうちに帰られなくて、年間で言えば250日ほど海の上に暮らしているわたしが、パイレーツオブカリビアンを10年ぶりに見直しました(前置きが長い)

そうです、Stay Homeの影響です。私たちは普段からなかなか陸に上がれませんがこの度の世界の情勢的に、さらに陸に上がれなくなりました。我々はデイヴィ・ジョーンズかよ。Stay the Seaとはなんとも皮肉なものです。

ならばそんな映画を(陸に上がれない系映画を)見てみよう!と選んだのがパイレーツ・オブ・カリビアン。ヲタク目線およびプロ目線(海の上で暮らすプロ)から見たパイレーツ・オブ・カリビアン(以下POC)について、思いの丈と感想をまとめておこうと思います。

これを読んだ皆さんが、ちょっとPOCを見直したくなったら、初めて見てみたくなったら嬉しいです。ディズニーの回し者ではないのですが、海の世界に触れる人が増えると思うと、なんだか嬉しいです。

(ああ有難や、ディズニーデラックス)

パイレーツオブカリビアンと私

いきなり自分語りから始まるんかーい。

とは思いましたが、これを語らずして思いの丈は綴られませんので失礼します。

はじめてPOCに出会ったのは中学一年生の頃でした。文化祭でPOCのメドレーを演奏したのです。なんともカッコいい音楽に射抜かれた私は、家でさっそく映画を鑑賞しました。

それまでもファンタジーやSF畑ですくすくと育ってきた私でしたが(ハリーポッターとスターウォーズ、ナルニア国物語にエラゴン、指輪物語は人生の教科書。)このパイレーツ沼にはまるまでにも時間はかかりませんでした。

POCの1作目と2作目を見終わった私は、完全に海の女でした。おかサーファーならぬ、おか船乗りでした。気分は。この頃からもう、学校の授業での進路希望や職業調査で、海の上で生きていくことを公言していましたから。もともと、海は好きで、漠然と海への憧れはありましたが、指輪物語の船出のシーンを見ても、ナルニア国物語の胸踊る航海活劇を見ても、これほどの気持ちにはなりませんでした。POCは何か波長が合ったのでしょうか。

ちなみに、ワンピースを読んで今の仕事についたの?と聞かれることが多々ありますが恥ずかしながら17歳までワンピースを読んだことがありませんでした。海の上で暮らす為の進学先が決定した高校三年生の秋から、これはまずい、ワンピースを読んでいない船乗りなんて非国民だと思い一気読みしました。尾田先生の描く海は本当にキラキラしていて、それはそれは胸を打たれたものです。(ウソップのエピソードで毎回大号泣する、付き合いたいのはクロコダイルとスモーカー、いけてる)

そんなわけで、話がそれましたがPOCと私というのは、人生のある種のターニングポイントとなる出会いだったわけですが、なぜか狂ったように見ていたティーンエイジャー時代からぱたりと見なくなり、10年も経ってしまったことに自分でも驚き、今回見直すにあたったのです。

船乗りあるある、マニアック描写

まずはじめに、あるある描写や、個人的に喜んだポイント、マニアック!と興奮したポイントを、長くなるので箇条書きにして洗い出したいと思います。

あまりにマニアックすぎる、ダルいと思ったら飛ばして次の項目に行ってください。

①呪われた海賊たち より

・喫水を浅くするためにアナマリナが即座に捨荷(荷物を海に投げ捨てること)を指示。こうすることで船が軽くなり喫水が浅くなるし、船の重心もいくらか下がる。即座にその判断ができるマリアンナに惚れた。
・全速前進中にアンカーをレッコ(錨をいれる、の意)し、行き足を低減しつつ回頭を補助し後ろから迫ってきてる敵船を避けるという展開にドキドキした。実際にできるかどつかとか、そういうのは問題ではない。かっこよかった。
・酒をこよなく愛する、博識で忠義深いギブス君、航海士。いる〜!こういう気のいいおじちゃん船乗り、いる〜!
・最後にジャックが愛おしそうに舵輪を撫でるシーンで泣いた。船は愛おしい。たまに撫でたくなる、わかる。

②デッドマンズチェスト より

・ジャックがチャートワーク(海図に航路を入れたりすること)に使っているコンパスが剣を模していて可愛い。当時イギリスで本当にこんなコンパスが使われていたから不勉強なのでわかりません。
・島へ、満ち潮で砂浜に座礁させ乗り込み、引き潮で離礁。なるほどという感じ。緩慢が大きい地域ならできるんだね、こういうことが。知らんけど。
・デイヴィ・ジョーンズ率いるフライングダッチマン号。こんな嫌な人いる?てくらい怖くて嫌な人がいっぱい出てくるけど、いるんだよね。あるんだよね現代にもさながらフライングダッチマンが。わかる。
・英語でBoatswain、なまって通称Bosun、読みはボースン。意味は甲板長。日本語吹き替えでは「かんぱんちょう」となったいたけど、現場での正式な言い方は「こうはんちょう」でも見てくれてる人に音だけで伝えるにはかんぱんちょうがベストな翻訳だったんだろうな。
・ビル・ターナー「100年働いたら自分を失っていく」わたし「わかる、半年も船に乗ったらかなり自我失われる、奪われる」謎のあるあると共感を発動。
・ポンコツ船員が集まってぼやくジャックにノリントン君「そちらの採用基準が低すぎるんだ」わたし「それな」人手不足の現代の海や上でも、採用基準は高くありません(もちろん会社による)、それ故やっぱりちょっと変わってる人も多い(もちろん自分も含まれているかもしれない)ここでも謎の共感を発動
・エリザベス嬢、争い始める男性陣に向かって「それが大の大人のすることなの⁈」わたし「ほんとそれ!」船乗りの男たちって馬鹿ばっかり(愛情をこめて言っています)なんです。わかるよ、そこに女性ひとりぽーんと投げ込まれたら苦労するよね。共感の嵐がやまないのでこの辺にしておきます。
・船の船尾に敵船が回り込んできたときに「ケツにつかれたぞ!」という翻訳、実にいいです。我々も普通に使う表現です。

③ワールドエンド より

・みんなで船を揺らすときに荷物のラッシング(固縛)を解いて自由水がわりに使うのが(見かけの重心が上昇、転覆しやすくなる。重心を移動させるという話。)面白い。復元力(船が傾いて元に戻ろうとする力)に大きく影響する。というのをギャグのように仕立てていて面白かった。
・今更かもしれないけど、船が帆走するときちゃんと傾きながら走っていてよかった(風を受けて走ると傾く)。※もちろん、まっすぐアップライトに走る時もあると思います。無風なら 意外と、海賊アニメや船アニメ、映画はまっすぐ走ってる描写が多いので。
「世界は変わっていない。面白みが減っただけだ」ジャックのセリフ。規制、規制、規則、規則の世の中。どんどん世の中に規則や法律は増えていくばかりで、減ることなんてなくて。船乗りは今も昔も、一分一秒ごとに自由を失っているかもしれません。一分一秒ごとに船乗りらしさを失ってるんだ。そう思ってしまいしみじみとしたセリフ。もちろん現代の法律は悪ではなく、だいたいが環境や船員を守るためのものです、でもやはり、昔の船乗りはより自由だっただろうなと思わない日はありません。

さて、ざっとこんな感じ。

読んでくださっている方、なにがなんだかだったでしょうが、海に生きる私たちが思わずあるある!と共感してしまう部分がいかに多かったかだけでも伝わればと思います。

次からは気になったトピックスごとに感想を書いていこうと思います。

「船長」という言葉の重み

ジャックは、誰かにジャック・スパロウ!と呼ばれたら「キャプテン」ジャック・スパロウだ、と訂正します(ややコミカルに描かれていますが)

デイヴィ・ジョーンズが、ジャック・スパロウ、と言った際にはエリザベスとウィルがキッとなって「キャプテン」ジャック・スパロウよ、と言い返すシーンもありました。

そのくらい、大切なのです。キャプテンという言葉は。そして、背負う責任と意思の重みがキャプテンという言葉に詰まっているのです。

3作目で、渦に巻き込まれた際にキャプテン・バルボッサとデイヴィ・ジョーンズは自ら舵輪を回していました。(普段はきっと船長や航海士の指示のもとクオーターマスター(操舵手)が舵輪を握っているでしょう)

現代の船乗りでも責任重大な入出港や狭水道通過時はキャプテンが舵を取ります(もしくは指示を出します)。もちろん危険が差し迫った時も。

映画の中でも、船長自らが舵を取ったシーンではこれからどれだけ過酷なシーンが待ち受けてるのかと手に汗を握りました。そして、バルボッサカッコいい!と思わず叫んでしまいました。荒れ狂う海の中、豪快に笑いながら乗組員たちを鼓舞し自ら舵を握る船長ですよ?うーん、痺れます。

そして賛否両論あった(らしい)船上結婚式のシーン。こちらも船長の権限で、バルボッサが立会人としてウィルとエリザベスの結婚を認めます。これは船長の権限をもってして神父に変わって式を執り行っているのです。さすがに日本では法律上そういった権限はありませんが(宗教観や結婚観の違いでしょうか)今でも船上で死者が出てた場合の水葬の判断の権限や、秩序を乱す船員の追放の権限などももっています。これらは船員法により定められています。

なんだか話が少しそれてしまったかもしれませんが、それだけ船長は多くの権限と多くの責任を背負っているのです。頼れるものもなく、助けも来ない海の上で、乗組員全ての命を預かっているわけですから。

だから船乗りたちは全力で働き信頼を寄せる船長に尽くし、船長はそれに応えるため全力で乗組員を守るのです。これだけは何世紀時が経とうと変わらない海の上での秩序だと思っています。

そういった船長という言葉の重みを踏まえて映画を見直すと、さらにキャプテン・ジャック・スパロウやキャプテン・バルボッサがかっこよく見えてきませんか?

もちろん、キャプテン・ターナーも。

信仰と船乗り

2で、ラゲッティ君が、神のお導きかもしれない!と聖書のページをめくるシーンや(文字は読めないけれど)、そんなもの読んだって…と馬鹿にするピンテル君でさえ、ピンチの際には十字を切るシーンがあります。

他にも、信仰を示唆するシーンはたくさん出てきます。それに対し、軽率にも、あ〜わかる〜と思ってしまった私がいたのです。

私自身はいつかどこかの記事で書いた通り、お正月は神社に行き、ご先祖は寺で供養し、クリスマスにはもろびとこぞりてを口ずさんでしまうような典型的な日本人です。家的にはたぶん仏教徒でしょう、仏壇あるし。

しかし、やはり、仏教徒がこんなことを言うのもおかしいですが八百万の神が在わす日本で育った私は、海の神様を信じてしまいます。船にある神棚(神棚がないおうちは最近多いかもしれないですが、神棚がない船は存在しないでしょう)をないがしろにしたら罪悪感が湧くし、新しい船の時には神主さんがお祓いに来てくれるとほっとするのです。船酔いに弱い私は、時化が来るとああどうか神様お願いと思ってしまいます。

海の上、船の上という心の支えの何一つない閉鎖空間で、頼れる仲間と酒、港港の女、そして信仰というのは一つの精神的な救いになっていたのではないでしょうか。

昔なんてとくに、今みたいに電波もなければ生きて帰られるかもわからない時代だったのですから。

各国の宗教と船乗りの歴史を探ってみるのも面白そうです。いずれまた。

海の上での微妙な人間関係

微妙って悪い意味で使う?
はい、私はここではこういう意味で使いたいです。ででん。

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なんとも言えない味わいや美しさ。

ジャックたちの時代も、現代も、船乗りは故郷や家族と離れひとつ屋根の下、同じ船の上でご飯を食べ風呂に入り、眠りにつきます。

よく社員を家族だと思え!という会社はブラック企業と言いますし、馴れ合いすぎては階級社会での指揮系統に支障をきたすかもしれません。

しかし、一年の間で家族よりも長い時間を過ごすのです、我々は。24時間。何百日と。

馴れ合わないけど、それなりに信頼は寄せていて、家族とどっちが大事かって言われればもちろん家族なんだけど、でも言葉にできない大切に思う気持ちもあって、、、お互いお父さんでも弟でも恋人でもないんだけど、でも大切な存在で。わたしにとっての乗組員ってそんな感じなんです。

閉鎖空間での、言葉にし難い、なんとも言えない微妙な関係。ただのビジネスパートナーと割り切るには少し情が湧きすぎてしまってたりとか。

わたしの話はこの辺にして、ジャックたちの話に戻りましょう。裏切りに裏切りを重ねてきたジャックたちでしたが、最後にウィルがジョーンズに刺された時のジャックの表情を見ましたか?この表情に、船の上でのなんとも言えない、信頼とか家族とか、そんな言葉では表しきれない関係性が詰め込んであったと感じてなりません。

そのあとエリザベスを連れて脱出したジャックの胸を借りて悲しむエリザベス。彼女もジャックを騙してみたり、そのために誘惑してみたりもしましたが、結局この時のエリザベスの感情が最終的にジャックに寄せていた感情の全てを物語っていたと思うんです。

ああ、語彙のない自分が恨めしい。この繊細で機微な、閉鎖空間での船乗りたちの感情を言葉で表現できるようになるまでに、わたしは何年かかってしまうのでしょうか。

そういった船乗りたちの危うさや脆さ、繊細な感情の美しさを楽しめる映画だと思ってしまったのは些か個人的すぎる所感でしょうか?笑


この映画って要約すると…

私が勝手にそういうメッセージを受け取っただけに過ぎないのですが、個人的には「海は誰のものにもならないから美しく、そして自由は愛すべきものである」ということを描いた映画だったように感じます。

3で、ベケット卿がデイヴィ・ジョーンズに「もはや海はお前のものではない」と告げるシーンがありますが、こちらからしたら、お前のものでもねーよ!と叫びたくなりましたね。

その叫びを体現してくれるかのような壮観のラスト。世界中の海賊たちが一致団結し、ベケット卿率いる東インド貿易会社とイギリス海軍、そしてデイヴィ・ジョーンズに立ち向かいます(このシチュエーションだけでも、単純な人間なのでぐっときてしまいました)

結果、海賊たちの勝利。晴れて自由の海を取り戻したのです。

海という主語のなんだか曖昧なものに、カリプソという海の女神が一枚噛んでくるので伝わりやすいかもしれません。

カリプソは誰の味方でもなく、誰のものにもならなかったのです。海は自由で奔放で、時に非情で、それなのに愛情深い。誰に対しても冷たく、誰に対しても母のよう。海という漠然としたものを、カリプソという女神に落とし込んでいるのはとても素敵な描写だと感じました。

カリプソ(=海)は誰のものでもなく、海は再び自由で広いものに戻ったのです。(でも最後はきっとジョーンズを迎えてくれました)

ですから、海に恋し、自由を愛した男たちの物語、とも言えるでしょう。そのくらい魅力的なのです、海は。一度恋をしてしまうと、離れられないんです。

カリプソへの愛が憎しみや怒りに変わってしまったデイヴィ・ジョーンズさえも、最後は海に、カリプソにかえっていきましたね。バッドエンドなんて言えないラストでしょう、これ以上ない幸せなラストだったかもしれないのです。

ああ、書いていたらなんだか海への愛おしい気持ちが湧き上がってきました。海で働いているくせに、飽きないの?嫌いにならない?と聞かれますが、これだけは自信を持って言えます。そんなことは絶対にありません。

いつの日か、海が憎くなることがこれから先の人生であるかもしれない。海を許せなくなることがあるかもしれない。たぶんある。でも最後はまた好きになっていると思う、絶対に離れられないと思う。それがわたしにとっての海です。

私と海という関係性を、映画に投影しすぎてしまったからでしょうか。やけに熱くなってしまいましたが、そうなってしまうくらいアツい作品だったのです。これは10年前は気づけなかった気持ちでした。というより、海の上で暮らすようになったからこそ、見えた、共鳴した部分があったのでしょう。

おわりに

最後に、海の上で暮らす一人の人間としてどうしても書いておきたいことがあります。

現代にも海賊はいます。それを知らずに私たちは生きています。

この島国日本で暮らす私たちは、日夜海賊への恐怖に負けず物資や資源を運んでくれる全ての船乗りさんたちに生かされています。それだけは忘れてはなりません。海賊行為は到底許された行為ではありません。

それと、この映画に出てくる愛すべき海賊たちとはなんの関係もないのですが、なんとなく、書き残しておきたくて。

ではこの映画は海賊行為を推奨する映画なの?作られなければ良かった映画?それも違うと感じています。

やはりこれは、誰がなんと言おうと、海賊映画であるけれど、それ以上に海と自由を愛した男たちの物語だと思うから。

だからわたしは、この映画に出会えてよかったと思っています。大好きだった海がさらにキラキラして見えたから。わたしも、同じ海に生きる船乗りなんだと誇りを持てたから。

そして、海の上で暮らしていないあなたも、少しだけ、ちょっと海でも見にいってみようかな、海ってなんかよくわかんないけどいいよね。とこの映画を見て思ってくれたらとても嬉しいし、わたしのこのレビューを読んで思ってくれたなら尚幸いです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。さあ、力で奪え!情けは無用!

◯後日談というか今回のオチ

わたしの元スクールメイトは、海賊になりたくて船の学校に入学したけれど、海賊にはなれないと入学後に知りました。そんな彼も今では立派な船乗りです!


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