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夏だけど冬とお酒の話を

くるぶしまで積もる道路の雪は除雪も追いつかないのか、職場の前では膝まであった。防寒長靴を履いてこなかったことを後悔しながら雪を踏み分ける。ズボンと靴の間に雪が入ってくるのを感じないように、出来るだけ静かに踏みしめる。

やっと除雪が追いついた公道に停まっているタクシーに飛び乗り、目的地を告げるが口が回らない。なんとか震えながら目的地を告げ放心する。

降りたのはいつもの少し元気のないネオン街。元気のあるネオン街はどうにも気後れして、こっちの街の方が私には合ってると思ってしまう。

店の前で降ろしてもらえばいいのに、少し離れたところに降ろしてもらってとぼとぼ歩く。滑らないように、滑らないように。当然わたしのつんつるてんのナイキには滑り止めなんてついてない。

やっとの思いでたどり着いた店の前の細い階段を小走りに駆け上がる。駆け上がったくせに、扉はえらく丁寧に開ける。

カランカランと開いた扉の先にはパチパチ、チカチカと燃えるストーブ。耳に心地よい。

またまた寒くて口が回らないのだけど、お久しぶりですをやっとの思いで捻り出す。お久しぶりですといつもの緩やかな笑顔のマスター。

そそくさとコートを脱ぎハンガーにかける。ちょっと頑張らないと座れない椅子によじ登り腰掛け、ほっと一息つく。

いつ出港なんですか?と聞かれるので明日の朝ですと答える。いつだって我々は忙しない。

いつものビールですか?と聞かれる。もちろんいつだってビールだ。雪にくるぶしまで埋れてきたって、ビールだ。

余談だけど、夏だって冬だっていつだってビールは美味しい。雲でできた布団よりビールの泡でできた布団で寝たいし、プールがビールで出来てたら泳ぎながら飲む。

今朝だって寒いけれど雪かきをしていたら汗だくになって、ドカジャンを脱いでしまったし、ビールにはうってつけの日なのである。ちなみにドカジャンというのは土方のジャンパーという意味であまりいい言葉ではないかもしれないが、現場で働くわたしは先人たちへの愛と敬意を込めてドカジャンと呼びドカジャンを愛している。

マスターがサーバーから注いでくれたビールは今日も美しい。ひとしきり眺めてから泡が消えないうちに流し込む。この一杯のために働いてるんだよなあとよく昔のアニメで言っていたっけ。昔はなんのことだか分からなかったけれど、いまは十二分にその意味がわかる。分からなかったことが分かる様になるのが歳を重ねるということなのかもしれないし、それは美しいことだといつも思う。ビールを飲みながら。

それから、ゆるりゆるりと他愛もない話をする。わたしの仕事のことから始まり、わたしの夢のこと、別れた男のこと、いま私に好意のありそうな男のこと、そしてやっぱりそんなことはどうでもよくて私の夢のこと。お客相手だからかマスターはいつだってわたしの夢を誰より応援してくれて、それが心地よい。だからわたしはこの店に通い続けるのだけど。

マスターの夢だってきっと叶うよ。そう言いたいのだけれど、色々なことを積み重ねてここにいるマスターに気安くそう言えるはずもなく、喉まで出かかっている言葉をまたビールで流し込んだりもする。

このあたりからはもう夢うつつ。あれ?夢をうつつの使い方ってこうじゃないのかもしれない。

次の日の仕事でお昼寝ができそうならラムを頼んじゃう。ロックでお願いしますね。お昼寝が出来なさそうならラムハイにしてもらう。マスターの作るジントニックは絶品なので、おすすめのクラフトジンで何杯かトニックも頼む。隣の人が飲んでいるアブサンがどうしても気になるのだけどわたしには10年くらい早い気もする。ウイスキーは分からないから全部お任せでお願いしちゃう。まだ寒いけれど苺を使ったカクテルも素敵。日本の粋って、季節の先取りのことだし。これ以上女が上がってしまったらどうしようなんて考えるのは杞憂かしら。

さて。

ちらっと携帯の時計を見るともうこんな時間。もっとゆっくり飲みたいし、おしゃべりしたいし、おしゃべりできなくてもこの空間にいたいのだけれど、時間は誰にとっても平等であるらしいので、最後の一杯は何にしようかとちょっと逡巡する。

ちょっと逡巡というのは、逡巡したふりで、実はもう最後の一杯はほとんど決まっているも同然なのだ。

あったかいのが飲みたいな。外はまだまだ寒いだろうし、雪はしんしんと降っているだろうし。

この間作ってもらったアマレットを温かいミルクで割った飲み物はとても美味しかった。美味しすぎてここのところずっと頂いてる。なにか違うおすすめはありますか?

出てきたのはアイリッシュコーヒー。温かいコーヒーとアイリッシュウイスキーとお砂糖、生クリームが天国のような混ざり方をした飲み物。のんだ途端ふわふわした気持ちになる。恋するって多分こういう気持ちかもしれない。酔っ払いは毎晩こういうことを思う。振り返るとあほらしいのだけど、そのあほらしさも愛しくなるような美味しさ。

まぶたの重さと気持ちのふわふわさは比例して、飲み干したいような、まだここにいたいような、ああでも明日も仕事だし。ようやく踏ん切りをつけてお会計を。

玄関まで送ってくれるマスターに見送られながらゆっくりと階段を降りる。酔っ払いはゆっくりとしか階段を降りられない。

お気をつけて。また来てくださいね。その言葉を嬉しく頭上で流しながら、タクシーを拾いなだれこむ。行き先だけ告げるとまぶたを支えきれなくなった。

温かすぎるほど暖房の効いた車内、車は雪が凍ってしまった道をそろそろと進む。進んでいると思う。まぶたは落ちているからわたしには分からないけれど。

飲んだお酒どれも美味しかったな。明日の仕事で準備しないといけない道具、なんだっけ。お風呂もう一度入ろうかどうしようか。マスターは今日も素敵だったな。わたし、夢叶うかな。雪国のタクシーの運転手さんて本当すごい。あ、牛乳買い忘れた。

まとまらない思考でむりやり脳を起こす。そうしている間にタクシーはわたしの職場に着いた。あれだけ眠かったけれど職場に帰ってくると少し気持ちがしゃきっとするみたい。後ろで運転手さんが私がタラップから落ちないように見ててくれるのを感じる。

部屋に帰ったわたしは、ベッドまでの1メートルが歩けなくてソファに寝転んでしまうと思う。メイクは落とせないと思う。夜中に気持ち悪くなってトイレに駆け込んで、麦茶をがぶ飲みして、ようやくベッドで寝られるんだと思う。

でもそんなわたしも、冬の酒場も、全てが愛おしくて、大好きで。そんな冬とお酒の話を。

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