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言葉で伝え合うために大切なこと

令和4年11月4日、とある外国人、ベルギーから来たご夫妻との出来事で学んだこと。

流石は大和はまほろば、外国人が時たま見える。
そんなところに出くわしてしまうのも何かの縁だろうか?

コロナ明けで、きっとあちらではマスクをしてないんだろうが、日本ではマスクを丁寧に着けておられることからも律儀に見えるご夫妻だ。
日本語しかないマップの看板を見ているお二人へ声をかける(英語は苦手なのでめちゃくちゃカタコトです汗)。
恐る恐るだったからかもしれないが、向こうもむずかしいだろうにカタコトの日本語で自分たちの紹介もしてくれた。

終始カタコトの会話であったものの、お互いがお互いを思いながら、自分のことを伝え合い、分かち合う中で、そして通じ合ったときに感じるほっこりとした気持ち。
なんともいえない安堵感に不思議とお互いに笑みが溢れる。
そうだ、コミュニケーションの原型がここにある!
そう確信せずにはいられなかった。

翻って日々の僕はどうだろうか?

細かいことに目が言って、妻にも些細なことに口を出さずにはいられなかったり、お互い自分の好きにやればよいのに、とは分かっているんだけど。
ときに相手を思うあまり(本当は自分の優位性を認めさせたいだけかも?)「こうしたほうがいい」と押し付けてしまうことが最近もあった。
何かを伝え合う、分かち合うという視点から見ればあまりに一方的じゃないか。

仕事場でもどうだろうか?
無機質な業務のことだけを話すだけになっていないだろうか?
そもそも何のために仕事ってするもの?
一人ではできないことだからこそ、組織に属し、その中で周囲と合わせながら進めていくことで、より大きな成果や効果を生み出せる筈。
そのためにはやはりコミュニケーション、分かち合い、伝え合うことは必要不可欠だ。

そして、それを阻害しているものはなんだろう?
相手のことを聞いていないことを頭で理解すれど、ではその奥にはどんな固定観念みたいなものがあるのだろうか?
自分の発話行為が本当に相手に伝わるためには、思っていることの言語化、そしてその言語化されものを解釈するという複雑なプロセスがあることをすっ飛ばして、言ったからには相手に伝わるという、これまた大きな独りよがりの考えがあることに気付かされる。

最初のベルギー人夫妻との会話に戻ろう。
あのときは何をどうしようと会話したのだろう?
お互いが持てるだけの言語リソースを総動員して、加えて身振り手振りを交えて、〇〇へ行くには何をすれば良いのか、そもそもそこはどういう場所なのかもつけ加えた。
本当に通じたかは定かではないが、最後写真を撮るとき、片言で「アン、ドゥ、トゥワ(フランス語で1,2,3)」と言うと、お二人のニッコリと満面の笑みを画面越しに覗き、きっとこれで良かったと確信めいた思いを抱いた。

このご夫妻との出会いはひょんな出来事だったかもしれない。
だけど今の自分におけるコミュニケーションの在り方について立ち止まって考える機会となった、個人的には何にも代えがたい経験の一つとして心に刻まれた。
もしまた伝わらないことにイライラしたら思い出すことにしよう。
そのときの会話が笑顔で結ばれるように…


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