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プロアルバイター


どうせなら日本人がいない場所で働きたいと思った。


五つ星ホテルの中にあるレストランのウエイターのバイトに受かった。


そこはオーストラリア首相、マーゴットロビー、ケンドリックラマー、たくさんのセレブリティがやってくる高級レストランだった。


よく受かったなと思う反面、私って意外と大丈夫だもんな、という自負もあった。

それなりにどこでもやっていける、理解できる、対応できる自信があった。


本当に大変なバイトだったけど、チップ文化のないオーストラリアで当たり前にチップがもらえる貴重な職場だった。

チップを含めると一回の出勤で大体400ドルは稼いでいた。



記念すべき出勤一日目、私のトレーニングはドリンクランナーというただひたすらドリンクをバーカウンターからお客様の席へと運び続ける仕事から始まった。

ドリンクランニングは本来ウエイターの仕事ではないのだけど、飲み物の名前を覚えるためのトレーニングという名目で全員が通る道だった。


マグカップ並々に注がれた熱々のコーヒーを二個も三個も持って広い店内を歩き回らなければならない。

ほんの少し歩いただけで美しいラテアートがカップの内側を右往左往する。とてもじゃないが早歩きなんてできない。一秒に一歩ロボットのように足を踏み出すので精一杯だ。

これは修行だと思った。


なによりの難関は一杯30ドル近くするカクテルをトレイに乗せて歩くこと。

底の浅いマティーニグラス並々に注がれたカクテルは私が歩幅を踏み出すごとにグラスの外へと少しずつ飛び出してゆく。冗談じゃない。

バランス感覚の達人でもない限りこれを完璧に溢さずに歩き続けるなんて絶対に無理だ。


私はわかりやすく疲弊していた。こんなことをするためにウエイターに合格したわけじゃない。




するとどうだろう。

トレイの上に置いたはずのエスプレッソマティーニが、お客様へ向かって一直線に飛んでゆく。

私の歩幅が大きすぎたのだ。

遠心力に耐えきれず私のトレイから弾け飛んだエスプレッソマティーニは、そのときたまたま目の前に座っていたお客様に一滴残らず降り注いだ。


席には真っ白のワンピースを着た女性のお客様と、茶色いシャツを着た男性のお客様がいた。


宙へと弾け飛んだエスプレッソマティーニは、男性の茶色いシャツ目掛けて全ダイブした。

白いワンピースは奇跡的に無事だった。


突然降り注いだエスプレッソマティーニの雨に、呆然とする男性、

それを見て大爆笑する女性、


私は自分のクビを確信した。

終わった。出勤初日にお客様にカクテルをぶちまけておいて無事なはずがない。



マネージャーがすっ飛んでくる。

とりあえず謝罪を、おしぼりを、とあたふたしていた私は先輩ウエイターに促され一度その場を後にする。


バックヤードで興醒めしていると、先ほどのマネジャーがこちらへ向かってやってきた。

あ、おわた。死んだ。さようなら帰ります。と反射的にそう思った。


Are you okay?
Did you hurt yourself?

大丈夫?怪我はない?と聞かれた。


怒られると思っていたので拍子抜けした。


Listen, listen babe,
Nothing wrong with you. 
You’re fine. Don’t worry.
Everyone makes mistake.

ベイビーよく聞いて、
あなたは大丈夫だから、
心配しないで、
ミスはみんなするから。


もはや涙目になっていた私に、マネージャーは自分の新人時代の失敗談を聞かせてくれた。

私の100倍やばい失敗談だった。

余裕で元気が出た。



茶色いシャツのお客様へはお店からクリーニング代を渡して、その日のドリンク代は全部無料にすることで折り合いが着いたらしい。


改めて謝りに行くと、初日なんだってね、僕のことは気にせずに頑張って。と笑顔で言ってくれた。

お連れの白いワンピースの女性からはこんなに笑わせてくれてありがとうと言われた。

こっちのワンピースじゃなくて本当によかったと思った。



新人のウエイターがやらかしたらしいと店の従業員の中では当然話題になっていた。


え、君がその新人?とみんなが次々に話しかけてきてくれる。もはや出だし好調だ。

そしてみんながみんな自分の失敗談を教えてくれた。だから大丈夫だよ、元気出して。と励ましてくれた。


ここでずっと働こうと思った。



実際私がブリスベンで一番長く続いたバイトはこのレストランだ。


楽しかった。

たくさんのクレイジーな思い出と、クレイジーな仲間たち。


ボスがオーストラリア人なだけじゃなくて、同僚もオーストラリア人の職場はここが初めてだった。


私はただのアルバイトだったけど、意識はプロだった。お客様を100%楽しませたい、このレストランの魅力を伝えたいと思っていた。

理由は私自身がこのレストランが大好きだったから。



この先もずっと忘れないであろう、アルバイトの思い出。

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