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ボクには空白の時間が出来てしまった

 全く何を言っているのか?と思われる方。いらっしゃるのではないでしょうか。んまぁ、自分の境遇とかその辺の話ですわ。というかどうせ空中分解して話が文字の大群になってしまいそうだけど。
 写真は久々の無職…殆どの一文なしに近い状態になって久しぶりに旅に出た時の様子。
 この時は旧型客車に乗るという自分で自分に長年の夢をメリークリスマスのプレゼントとして与え、心底落ち着いたものだったなぁ…(旅に出た日がクリスマスイブでした)
 そんなこったで、近く迎えるGWについて何かを想えたらと記事を書いてみる事に。自分にとっては本当に「自由な時間とは今生の別れ」だと思い、様々な事象を全力プレーで楽しんでいたような気がする。
 それは例えにしては大袈裟すぎるが、実に高校生の部活少年・部活少女のように全力投球だった。そんな昨年の春連休をハイライトで見てみよう。

 まず。昨年のGWにはこんな長距離の切符を作成して旅に出ていた。コレは自分の境遇が「就職に向けての学習をしている立場」という現状に当時立っており、「就職前に何か刻みたかった」との意図で挑戦した切符だった。
 最初に経路表を自作して駅員氏に手渡すのだが、その時点にて駅員氏が既に5人近く集まる瞬間は何とも言えぬ後悔や羞恥のようなモノが…観光や帰省に向けての切符作りに勤しんでいる京都駅の中が戦慄に走ったあの瞬間は何か覚えていると同時に、「やってやったぞ」という企みが混じったものを感じていた。もうあんな大きな駅ではしたいと思わないけど。

 提出した経路表の写真が残されていた。当時、JRの保有する「マルス」という機械に個人的な興味があり、「何路線以上含むと機械がエラーを吐く」というのを自分が覚えており、その上での発券となった。
 実際はこの中で「飯山線」か「相模線」の区間どれかが引っ掛かって再度作成をやり直す事になったが、それでもこの乗車券の作成には「1週間」という期間を要している。本当に管轄路線を管理してくださっている会社の方々、そして切符発行の中心になって下さった京都駅駅員の皆様には感謝しかないところだ。
 確か30,000円と少し…程だった記憶があり、京都の特定区間を含んだため「京都〜保津峡での最初の途中下車をすると回収」という特例ルールまで付属してきた。本当にこんな時期しか出来ない壮大なイタズラだ!!と思って勇んでいた出来事だったが、この半年後には職を失っている事実。何とも虚しいというか自分らしいというか呆気ないというか。
 この経路表を修正した形で補充券が遂に提供され、晴れて自分のモノになった訳だ。何があったか…を全て書き込んでいく訳には今いかないので、事象として当時の自分に大きかったもの。また、今と比較して「良かった経験」だと思うモノを掲載していこう。

 1つ目。これは途中下車にて接した…というより下車印欲しさに寄った副産物であったが、名鉄の「特別車併結急行」を見る事が出来た。
 噂に聞いていた運用ではあったが、この運用を見たのはコレが初見であった。
 そもそもが名古屋方面には早朝の立ち寄りがない…という事から個人的には衝撃的なシーンとして映えたこの記録であったが、埼玉の友人は
「夜行で関東を出ているから名古屋着だと何回か」
という証言もあった。
 やはり関西育ちの自分には「時間」という運がこの時付き纏っていたのかもしれない。
 そして塗装も新塗装の車両…とあり少しフレッシュな統一感を与えている。この感覚は賛否あるだろうとして。
 チラリと垣間見える「急行」の幕からその背景を感じてくださると幸いだ。撮影場所はホームドアのフレームインから推察されるように「金山」での撮影である。

 2つ目。これも「運が呼んだ」事象なのかもしれない。373系による東海道普通運用だ。
 373系による普通運用は東海道線・飯田線での定番ネタとして鉄道ファンに知られている密かなネタ。改正されてしまった今には不明な範囲だが、この時は朝7時か8時で373系の普通電車に豊橋〜浜松で乗車でき、新幹線を除外すると「最も快適な在来線の移動」となった。(当然の話だろう)
 しかしこの奇想天外な遭遇については本当に動揺が隠せず、つい折り返し中の車掌に
「乗車してもイイですか…?」
と無知ムーブをかました恥ずかしさは忘れられない。「ある」と分かってはいても、いざ目の前にすると脳は前に進めないんだと今になっては受け止めるしかない話だ。

 実際に「普通電車 浜松行き」という表示を車内で流している様子を捉えた。
 関西でもデラックスな車両の間合い普通運用なんかはごく稀な存在…であっただ、「伊那路」「ふじかわ」用の車両がこの運用を平気でしているのは何か訳がというか感覚が違う。
 しかし後に冷静になって乗車してから判断をしたが、373系は電化区間での「臨時急行」や数年前までの「夜行快速」など、機敏に働いていた車両だと考え直させられた。
 しかしそれにしても出す引き出しが豪華すぎではないか。出し惜しみというレベルも良い範囲をオーバーしているような気がする。
 浜松到着前までのハイライト、浜名湖の橋を渡る瞬間は大層惜しく。
「このまま頼むから沼津までとは言わぬから静岡までは頼むよ」
と懇願したくなった。
 しかしこの「1」・「2」については旅路の開始日と時刻を平日の昼にし、亀山市のネカフェで一夜を明かした為に遭遇した事象である。
 非常にフライングスタートが功を奏した瞬間であった。

 3つ目。個人的な話…として、沼津のD52遭遇は欠かせない話かもしれない。
 沼津から始まっていく丹那の鉄道の急坂…特にここでは御殿場が鉄道の主要街道だった時代となる。
 そんな折、鉄道を支えていた存在というのだろうか。旅客・貨物共にその存在の大黒柱として御殿場線に君臨していたのがこの大型機関車D52であった。
 戦時中の生まれであり、
「もっと強化した機関車を製造しろ」
との命令に従って突貫的に製造したはイイものの命は短く、終戦後の運用ではボイラー爆発などが絶えなかった…と悲運な機関車ではあったが、後にこうして山坂に苦しんだ区間では「英雄」として称えられその存在を後世いつまでも遺しているのは本当に感謝の次第だ。
 そしてそんな「急峻な路に挑んだ先人の歴史」を見れた事も非常に良かったが。個人的に指すならココでは「北海道向け密閉キャブ」でのD52に出会えたのは非常に大きかった。保存機探しには何か1つ、大きな歩みだったといえるだろう。

 4つ目。50000形VSEありがとう装飾との出会い。
 コレに関しては本当の偶然が演出してくれた出来事。自分も「小田急がVSEでなんかやってる」くらいで見ていた当日のネットだったが、相模線は海老名で途中下車した時に小田急のミュージックホーンを観測。
 下を覗くとありがとう装飾のVSEがいた…という状態だった。多くの鉄道ファンも撮影しており、後に鉄道ファンからの注目も熱いイベントであった事を再認識する形となった。
 結局コレについては、「2編成同時走行させて同じVSE同士を追いかけ回す」というイベントだったような気がする。(もう若干忘れた)
 しかしコレ以降「小田急50000形」にも遭遇する事はなく、自分にとっても「最後の出会い」になっている。非常に良い展開となってるのは今でも嬉しい。

 5つ目。神奈川県突入で何よりも自分に実りがある…出会いといえばコレなのかなぁという気持ちに何度も見返す度耽るのでうp。
 小田急はSEでございます。正式車両形式は3000形。この電車こそ、鉄道史に名を残し。そして今や鉄道ファンが毎年注目している「鉄道友の会 ブルーリボン賞」の第1号なのですから。
 狭軌鉄道最高時速の更新。そして戦時中に爆撃機や武器設計に携わっていた人々たちの苦労が報われた…などなど多くのストーリーを浮かべてしまいますが、やはり偉大なぁもんは偉大に映るんだと。
「あぁ、ヤツがいるぜ…」
と言葉を飲まれるような空気になったのは忘れられない。
 保存車探しをしていて、割と大きな出会いだったかもしれないのでそういった点でもプラス以上の価値をくれましたよっと。ロマンスカーミュージアムでは他にも自分が図鑑でしか見た事のない車両たちの保存もされていたが、これらの車両のインパクトを通り越して…SEがもたらしていた威厳は大きかった。

 6つ目。EF57。「ゴナナ」というもう形式そのままで呼ばれていた昭和の旅客機の代表格。
 迫り出した状態のパンタグラフが格好良いのは勿論…なのとして、やはりこの。「デッキ」なわけですな。見れて良かったと感じたのは。
 そしてこの「ゴナナ」は個人的に東北本線での「八甲田」「津軽」「荷物列車」といった客車を凛々しく牽引する姿が印象に残っている機関車。そもそも全国で「デッキ付き旧型電機」というコンテンツは中々発見できない為、この出会いは非常に強く良いものを残してくれたと思う。
 そして自分の憧れた銀幕のスターがこうして目の前にいる感動は非常に偉大で代えられない存在を放っていた。
 この時に笑顔で記念写真に応じてくれた自転車のおっちゃんも忘れられない。何だかんだ良い思い出になった。

 7つ目。これは万人受け?というか旅行受けの面も考えれば非常に大きいかもしれない。
 SLばんえつ物語の乗車とC57-180の遭遇だ。この時の180号機は来る「鉄道開業150周年」に向けてのキックオフ的な意味合いとして「ヘッドマーク」を装着していない姿での運用となった。
「その姿さえ見れたら良いか」
との考えで個人的には始まっていた面が大きかったが、旅の道中茅ヶ崎駅で
「待て。もし空席あったら行ってみるか?」
と半信半疑な気持ちでみどりの券売機を叩いたところ空席発見。ボックスの1番端だったがなんとか肩身狭く着陸し、会津から新津までのSL旅行を楽しんでいたのだった。
 コレについては多くの人から
「お前SLは卑怯やろ!!(笑)」
と帰ってから散々言われたり
「乗れたの?当日で?」
と若干疑いをかけられたり非常に困惑するような質問を受けたり面白い列車になった。
 その後、C57-180は検査に入り大宮の工場へ。そして磐越西線は豪雨災害にて東西が寸断されて統一運転が不可能になり、SLに乗車できた体験自体が非常に貴重な体験になってしまうのであった。
 今は一体どうなっているのだろう。車内で優しくしてくれたアテンダントさん。靴下の穴が抜けてしまった車掌さん。元気にしているだろうか。

 8つ目。新潟県への上陸。
 コレについては事個人的な話…になってしまうのが何か複雑というか、全くの自分話。
 それまでの新潟県といえば、しなの鉄道の「「妙高高原」でしか上陸経験がなく、土産物の店主さんとの会話で
「え、今ボクは新潟にいるんですか…?」
と天然をかましていた頃に遡る。その話は2021年だ。その時以来の新潟県。
 この時は大半の地平ホームを高架に転換し、残すはあと2線という状況にまで迫っていた。
 新潟駅の線路は大半を高架化した事により、乗客の対面乗り換え…行程上での新在直通が可能になっている設計となった。
 こういった特殊構造の駅にはじめて触れた為、「新幹線と在来線が同じ環境を使っている」
のを見るのが完璧初見だった自分には全く面白く映え、近未来さえ感じた。
 車両は115系も既に撤退済みでE129系とキハ110形を中心とした陣容…ではあったが、新たな新潟県の様子を見れたのは非常に良かった。
 翌日の始発では越後石山の車窓から115系「2次新潟色」の姿を確認する事ができ、そちらも個人的には良い成果に残っていた。

 9つ目。翌日に引退運転が決定していた「あいの風とやま鉄道」の413系だ。
 この日は引退が決定した「新北陸色」+青単色の編成を連結しての記念運転となった。非常に別れを惜しむムードに富山県が満ちていた…ような記憶があり、ラストランに関する記念運行は2日間?で行われたような記憶が残る。
 その際、撮影と乗車に分けて乗車したファンもいれば、撮影を細かに何ヶ所も分けたファンも居たような記憶がある。しかし今となっては
「懐かしい何か」
にて思考が半停止してしまい、この413系新北陸との訣別は「大いなる何か」に過ぎなかったとしか思えない。
 しかし。この「新北陸色」がもたらした影響は大きいだろう。
 JR西日本の魔改造傑作である「食パン」こと419系もかつてはこの塗装をしていた車両であり、正に「北陸を象徴する普通電車」の色であった。
 自分にとっては「雷鳥」「サンダーバード」「トワイライトエクスプレス」の横を映像で走っている存在でしかなかったこの色を最終最後。電気の通った状態で見れた事は非常に大きな出来事であった。この日に流れた「あいの風」接近メロディでは涙腺が刺激され、最初で最後の動く北陸の電車との別れが惜しい気持ちになったのを、記事を書いて思い出したところだ。
 この塗色を敦賀から広範囲に北陸全土で見れた栄光の時代の1つを見てみたかったと共に、そんな時代の終焉がきっとそこにはあったのだろう。

 ちなみに反対側。「青単色」(勝手にそう呼んでいる)の方にはなんと嬉しい事か「townトレイン」のHMらしきものを装着していた。
「逆やったら良かってんけどなぁ」
と思う気持ちを若干は堪えていたが、そもそもこんなデザインで出される事自体に会社への感謝をしなければならないと思って向き合った。
 しかし思えばこの出来事も一周忌。早すぎるというより、もう1回転してしまったのかと呆気に取られる気持ちになる。

 10つ目。コレについてはもう観測自体が貴重な経験になってしまったので記しておこう。
 高山本線・キハ85形の記録だ。前回の記事では乗車について触れたが、猪谷以南での東海管轄区でもしっかりとその姿をレンズに焼き付けている。(この低スペカメラにそんな表現似合わないが)
 結局、高山本線での富山絡みな移動もこの経験が最初で最後になってしまい、自分の中ではこの経験も
「あっ、行っておいて良かった」
になっている。というか、キハ85形が主力を張っているうちに高山本線を完全乗車しておいて助かった気持ちになったのが本音だ。こうして観測した記録の写真も、今となっては
「良かった」
というより
「安堵」
に近い救われた感覚の方が近く、1年前と今の鉄道環境の変化などを感じている次第だ。この後の「ひだ乗車」の判断も自分の中では「後悔しない体験料」になっていたのかもしれない。


 こうして仕事に就いて「半年」が経過した。そして、職を辞める事になる。
 今でこそ事業所に再雇用して頂いたが、それまでの自分は何か
「情けない」
というより
「あれ?あの時の最後を括った気持ちって何やったの?」
という心情の方が強烈だった。
 写真の静岡・大井川は中学生以来の憧れ。自分にとっては胸を張っての「メリークリスマス」になるつもりが、結局自分の孤独さや情けなさ、無力さや不甲斐なさなどを感じて関西に帰ってしまった。
 そして、この時のクリスマスは自分にとって久しぶりの「休日」だった。それまではずっと一心に働いていたのを思い出すと情けなさは倍増してしまうばかりなのがもどかしいというばかりか。
 今、自分は定型的に休みが進行している。カレンダー通りに動けば次はGWが来る。
 何か大きな旅にリベンジしてみたいが、何をすべきか非常に悩むところだ。

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