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【朗読台本】猿ヶ島 / 太宰治

はるばると海を越えて、この島に着いたときの私の憂愁(ゆうしゅう)を思い給(たま)え。夜なのか昼なのか、島は深い霧に包まれて眠っていた。私は眼をしばたたいて、島の全貌(ぜんぼう)を見すかそうと努めたのである。裸の大きい岩が急な勾配(こうばい)を作っていくつもいくつも積みかさなり、ところどころに洞窟のくろい口(くち)のあいているのがおぼろに見えた。これは山であろうか一本の青草(あおくさ)もない。私は岩山の岸に沿うてよろよろと歩いた。あやしい呼び声がときどき聞こえる。さほど遠くからでもない。狼であろうか。熊であろうか。しかし、ながい旅路の疲れから、私はかえって大胆になっていた。私はこういう咆哮(ほうこう)をさえ気にかけず島をめぐり歩いたのである。私は島の単調さに驚いた。歩いても歩いても、こつこつの固い道である。右手は岩山であって、すぐ左手には粗い胡麻石(ごまいし)が殆ど垂直にそそり立っているのだ。そのあいだに、いま私の歩いている此の道が、六尺ほどの幅で、坦々とつづいている。道のつきるところまで歩こう。言うすべもない混乱と疲労から、なにものも恐れぬ勇気を得ていたのである。ものの半里も歩いたろうか。私は、再びもとの出発点に立っていた。私は道が岩山をぐるっとめぐってついてあるのを了解した。おそらく、私はおなじ道を二度ほどめぐったにちがいない。私は島が思いのほかに小さいのを知った。霧は次第にうすらぎ、山のいただきが私のすぐ額(ひたい)のうえにのしかかって見えだした。峯(みね)が三つ。まんなかの円い峯(みね)は、高さが三四丈(さんよんじょう)もあるであろうか。様様(さまざま)の色をしたひらたい岩で畳まれ、その片側の傾斜がゆるく流れて隣の小さくとがった峯(みね)へ伸び、もう一方の側(がわ)の傾斜は、けわしい断崖(だんがい)をなしてその峯(みね)の中腹あたりにまで滑り落ち、それからまたふくらみがむくむく起こって、ひろい丘になっている。断崖(だんがい)と丘の硲(はざま)から、細い滝がひとすじ流れ出ていた。滝の附近の岩は勿論(もちろん)、島(しま)全体が濃い霧のために黝(あおぐろ)く濡れているのである。木が二本見える。滝口に、一本。樫(かし)に似たのが。丘の上にも、一本。えたいの知れぬふとい木が。そうして、いずれも枯れている。私はこの荒涼(こうりょう)の風景を眺めて、暫(しばら)くぼんやりしていた。霧はいよいようすらいで、日の光がまんなかの峯(みね)にさし始めた。霧にぬれた峯(みね)は、かがやいた。朝日だ。それが朝日であるか、夕日であるか、私にはその香気(こうき)でもって識別することができるのだ。それでは、いまは夜明けなのか。私は、いくぶんすがすがしい気持ちになって、山をよじ登ったのである。見た眼には、けわしそうでもあるが、こうして登ってみると、きちんきちんと足だまりができていて、さほど難渋(なんじゅう)でない。とうとう滝口にまで這いのぼった。ここには朝日がまっすぐに当(あた)り、なごやかな風さえ頬に感ぜられるのだ。私は樫(かし)に似た木の傍(そば)へ行って、腰をおろした。これは、ほんとうに樫(かし)であろうか、それとも楢(なら)か樅(もみ)であろうか。私は梢(こずえ)までずっと見あげたのである。枯れた細い枝が五六本、空にむかい、手ぢかなところにある枝は、たいていぶざまにへし折られていた。のぼってみようか。
ふぶきのこえ
われをよぶ
風の音であろう。私はするするのぼり始めた。
とらわれの
われをよぶ
気疲れがひどいと、さまざまな歌声がきこえるものだ。私は梢にまで達した。梢の枯枝(かれえだ)を二三度(にさんど)ばさばさゆすぶってみた。
いのちともしき
われをよぶ
足だまりにしていた枯枝(かれえだ)がぽきっと折れた。不覚にも私は、ずるずる幹づたいに滑り落ちた。
彼「折ったな。」
その声を、つい頭の上で、はっきり聞いた。私は幹にすがって立ちあがり、
うつろな眼で声のありかを捜したのである。ああ。戦慄(せんりつ)が私の背を走る。朝日を受けて金色(きんいろ)にかがやく断崖(だんがい)を一匹の猿がのそのそと降りて来るのだ。私のからだの中でそれまで眠らされていたものが、いちどにきらっと光り出した。
私「降りて来い。枝を折ったのはおれだ。」
彼「それは、おれの木だ。」
崖を降りつくした彼は、そう答えて滝口のほうへ歩いて来た。私は身構えた。彼はまぶしそうに額(ひたい)へたくさんの皺(しわ)をよせて、私の姿をじろじろ眺め、やがて、まっ白い歯をむきだして笑った。笑いは私をいらだたせた。
私「おかしいか。」
彼「おかしい。」
彼は言った。
彼「海を渡って来たろう。」
私「うん。」
私は滝口からもくもく湧いて出る波の模様を眺めながらうなずいた。せま苦しい箱の中で過したながい旅路を回想したのである。
彼「なんだか知れぬが、おおきい海を。」
私「うん。」
また、うなずいてやった。
彼「やっぱり、おれと同じだ。」
彼はそう呟(つぶや)き、滝口の水を掬(すく)って飲んだ。いつの間にか、私たちは並んで坐っていたのである。
彼「ふるさとが同じなのさ。一目(ひとめ)、見ると判る。おれたちの国のものはみんな耳が光っているのだよ。」
彼は私の耳を強くつまみあげた。私は怒って、彼のそのいたずらした右手をひっ掻(か)いてやった。それから私たちは顔を見合せて笑った。私は、なにやらくつろいだ気分になっていたのだ。けたたましい叫び声がすぐ身ぢかで起こった。おどろいて振りむくと、ひとむれの尾(お)の太い毛むくじゃらな猿が、丘のてっぺんに陣どって私たちへ吠(ほ)えかけているのである。私は立ちあがった。
彼「よせ、よせ。こっちへ手(て)むかっているのじゃないよ。ほえざるという奴さ。毎朝あんなにして太陽に向って吠えたてるのだ。」
私は呆然(ぼうぜん)と立ちつくした。どの山の峯(みね)にも、猿がいっぱいにむらがり、背をまるくして朝日を浴びているのである。
私「これは、みんな猿か。」
私は夢みるようであった。
彼「そうだよ。しかし、おれたちとちがう猿だ。ふるさとがちがうのさ。」
私は彼等を一匹一匹たんねんに眺め渡した。ふさふさした白い毛を朝風に吹かせながら児猿(こざる)に乳を飲ませている者。赤い大きな鼻を空にむけてなにかしら歌っている者。縞(しま)の美事(みごと)な尾(お)を振りながら日光のなかでつるんでいる者。しかめつらをして、せわしげにあちこちと散歩している者。私は彼に囁(ささや)いた。
私「ここは、どこだろう。」
彼は慈悲ふかげな眼ざしで答えた。
彼「おれも知らないのだよ。しかし、日本(にっぽん)ではないようだ。」
私「そうか。」
私は溜息(ためいき)をついた。
私「でも、この木は木曾樫(かし)のようだが。」
彼は振りかえって枯木(かれき)の幹をぴたぴたと叩き、ずっと梢を見あげたのである。
彼「そうでないよ。枝の生えかたがちがうし、それに、木肌(きはだ)の日の反射のしかただって鈍いじゃないか。もっとも、芽が出てみないと判らぬけれど。」
私は立ったまま、枯木(かれき)へ寄りかかって彼に尋ねた。
私「どうして芽が出ないのだ。」
彼「春から枯れているのさ。おれがここへ来たときにも枯れていた。あれから、四月、五月、六月、と三つきも経っているが、しなびて行くだけじゃないか。これは、ことに依ったら挿木(さしき)でないかな。根がないのだよ、きっと。あっちの木は、もっとひどいよ。奴等のくそだらけだ。」
そう言って彼は、ほえざるの一群を指さした。ほえざるは、もう啼(な)きやんでいて、島は割合に平静であった。
彼「坐らないか。話をしよう。」

私は彼にぴったりくっついて坐った。
彼「ここは、いいところだろう。この島のうちでは、ここがいちばんいいのだよ。日が当るし、木があるし、おまけに、水の音が聞えるし。」
彼は脚下(きゃっか)の小さい滝を満足げに見おろしたのである。
彼「おれは、日本(にっぽん)の北方の海峡ちかくに生れたのだ。夜になると波の音(おと)が幽(かす)かにどぶんどぶんと聞えたよ。波の音(おと)って、いいものだな。なんだかじわじわ胸をそそるよ。」
私もふるさとのことを語りたくなった。
私「おれには、水の音(おと)よりも木がなつかしいな。日本の中部の山の奥の奥で生れたものだから。青葉の香(かおり)はいいぞ。」
彼「それあ、いいさ。みんな木をなつかしがっているよ。だから、この島にいる奴は誰にしたって、一本でも木のあるところに坐りたいのだよ。」
言いながら彼は股の毛をわけて、深い赤黒い傷跡をいくつも私に見せた。
彼「ここをおれの場所にするのに、こんな苦労をしたのさ。」
私は、この場所から立ち去ろうと思った。
私「おれは、知らなかったものだから。」
彼「いいのだよ。構わないのだよ。おれは、ひとりぼっちなのだ。いまから、ここをふたりの場所にしてもいい。だが、もう枝を折らないようにしろよ。」
霧はまったく晴れ渡って、私たちのすぐ眼のまえに、異様な風景が現出(げんしゅつ)したのである。青葉。それがまず私の眼にしみた。私には、いまの季節がはっきり判った。ふるさとでは、椎(しい)の若葉が美しい頃なのだ。私は首をふりふりこの並木の青葉を眺めた。しかし、そういう陶酔(とうすい)も瞬時に破れた。私はふたたび驚愕(きょうがく)の眼を見はったのである。青葉の下には、水を打った砂利道が涼しげに敷かれていて、白いよそおいをした瞳の青い人間たちが、流れるようにぞろぞろ歩いている。まばゆい鳥の羽を頭につけた女もいた。蛇(へび)の皮のふとい杖をゆるやかに振って右左に微笑を送る男もいた。彼は私のわななく胴体をつよく抱き、口早(くちばや)に囁いた。
彼「おどろくなよ。毎日こうなのだ。」
私「どうなるのだ。みんなおれたちを狙っている。」
山で捕われ、この島につくまでの私のむざんな経歴が思い出され、私は
下唇(したくちびる)を噛みしめた。
彼「見せ物だよ。おれたちの見せ物だよ。だまって見ていろ。面白いこともあるよ。」
彼はせわしげにそう教えて、片手ではなおも私のからだを抱きかかえ、もう一方の手であちこちの人間を指さしつつ、ひそひそ物語って聞かせたのである。あれは人妻と言って、亭主のおもちゃになるか、亭主の支配者になるか、ふたとおりの生きかたしか知らぬ女で、もしかしたら人間の臍(へそ)というものが、あんな形であるかも知れぬ。あれは学者と言って、死んだ天才にめいわくな註釈をつけ、生まれる天才をたしなめながらめしを食っているおかしな奴だが、おれはあれを見るたびに、なんとも知れず眠たくなるのだ。あれは女優と言って、舞台にいるときよりも素面(すがお)でいるときのほうが芝居の上手な婆(ばばあ)で、おおお、またおれの奥の虫歯がいたんで来た。あれは地主と言って、自分もまた労働しているとしじゅう弁明ばかりしている小胆者(しょうたんもの)だが、おれはあのお姿を見ると、鼻筋づたいに虱(しらみ)が這って歩いているようなもどかしさを覚える。また、あそこのベンチに腰かけている白手袋の男は、おれのいちばんいやな奴で、見ろ、あいつがここへ現われたら、もはや中天(ちゅうてん)に、臭く黄色い糞(ふん)の竜巻が現われているじゃないか。私は彼の饒舌(じょうぜつ)をうつつに聞いていた。私は別なものを見つめていたのである。燃えるような四つの眼を。青く澄んだ人間の子供の眼を。先刻よりこの二人の子供は、島の外廓(がいかく)に築かれた胡麻石の塀(へい)からやっと顔だけを覗きこませ、むさぼるように島を眺めまわしているのだ。二人ながら男の子であろう。短い金髪が、朝風(あさかぜ)にぱさぱさ踊っている。ひとりは、そばかすで鼻がまっくろである。もうひとりの子は、桃の花のような頬をしている。やがて二人は、同時に首をかしげて思案(しあん)した。それから鼻のくろい子供が唇をむっと尖(とが)らせ、烈(はげ)しい口調で相手に何か耳うちした。私は彼のからだを両手でゆすぶって叫んだ。

私「何を言っているのだ。教えて呉(く)れ。あの子供たちは何を言っているのだ。」
彼はぎょっとしたらしく、ふっとおしゃべりを止(さ)し、私の顔と向うの子供たちとを見較べた。そうして、口をもぐもぐ動かしつつ暫く思いに沈んだのだ。私は彼のそういう困却(こんきゃく)にただならぬ気配を見てとったのである。子供たちが訳のわからぬ言葉をするどく島へ吐きつけて、そろって石塀(いしべい)の上から影を消してしまってからも、彼は額(ひたい)に片手をあてたり尻を掻きむしったりしながら、ひどく躊躇(ちゅうちょ)をしていたが、やがて、口角(こうかく)に意地わるげな笑いをさえ含めてのろのろと言いだした。
彼「いつ来て見ても変らない、とほざいたのだよ。」
変らない。私には一切がわかった。私の疑惑が、まんまと的中していたのだ。変らない。これは批評の言葉である。見せ物は私たちなのだ。
私「そうか。すると、君は嘘をついていたのだね。」
ぶち殺そうと思った。彼は私のからだに巻きつけていた片手へぎゅっと力こめて答えた。
彼「ふびんだったから。」
私は彼の幅のひろい胸にむしゃぶりついたのである。彼のいやらしい親切に対する憤怒(ふんど)よりも、おのれの無智に対する羞恥(しゅうち)の念がたまらなかった。
彼「泣くのはやめろよ。どうにもならぬ。」
彼は私の背をかるくたたきながら、ものうげに呟いた。
彼「あの石塀(いしべい)の上に細長い木の札(ふだ)が立てられているだろう? おれたちには裏の薄汚く赤ちゃけた木目だけを見せているが、あのおもてには、なんと書かれてあるか。人間たちはそれを読むのだよ。耳の光るのが日本(にっぽん)の猿だ、と書かれてあるのさ。いや、もしかしたら、もっとひどい侮辱が書かれてあるのかも知れないよ。」
私は聞きたくもなかった。彼の腕からのがれ、枯木(かれき)のもとへ飛んで行った。のぼった。梢にしがみつき、島の全貌を見渡したのである。日はすでに高く上って、島のここかしこから白い靄(もや)がほやほやと立っていた。百匹もの猿は、青空の下でのどかに日向(ひなた)ぼっこして遊んでいた。私は、滝口の傍(そば)でじっとうずくまっている彼に声をかけた。
私「みんな知らないのか。」
彼は私の顔を見ずに下から答えてよこした。
彼「知るものか。知っているのは、おそらく、おれと君とだけだよ。」
私「なぜ逃げないのだ。」
彼「君は逃げるつもりか。」
私「逃げる。」
青葉。砂利道。人の流れ。
彼「こわくないか。」
私はぐっと眼をつぶった。言っていけない言葉を彼は言ったのだ。はたはたと耳をかすめて通る風の音にまじって、低い歌声が響いて来た。彼が歌っているのであろうか。眼が熱い。さっき私を木から落したのは、この歌だ。私は眼をつぶったまま耳傾けたのである。
彼「よせ、よせ。降りて来いよ。ここはいいところだよ。日が当るし、木があるし、水の音が聞えるし、それにだいいち、めしの心配がいらないのだよ。」
彼のそう呼ぶ声を遠くからのように聞いた。それからひくい笑い声も。
ああ。この誘惑は真実に似ている。あるいは真実かも知れぬ。私は心のなかで大きくよろめくものを覚えたのである。けれども、けれども血は、
山で育った私の馬鹿な血は、やはり執拗に叫ぶのだ。


——否(いな)!
一八九六年、六月のなかば、ロンドン博物館附属動物園の事務所に、日本猿(にほんざる)の遁走(とんそう)が報ぜられた。行方が知れぬのである。しかも、一匹でなかった。二匹である。

●アクセント

・峯 / みね:「ミ↑ネ↓」

・香気/こうき:「コ\ーキ」

・いくぶん:「イクブン‾」

・滝口/たきぐち:「タキグチ‾」

・楢/なら:「ナ↑ラ↓」

・いつのまにか:「イツノマニカ‾」

・手向かう/てむかう:「テムカ\ウ」

・ことに依ると/ことによると:「コト<ニ>ヨルト」※ニにアクセント

・靄/もや:「モ↑ヤ↓」


●出典

インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)のデータを元に、より朗読しやすいよう

・「ふりがな」をふり

・一部本文に加筆(【例】起って→起こって)

・話者を表記

した物です。


●朗読台本用データ

・サイズ:四六判 ( 縦書/頁数:34P)

・フォーマット:Microsoft Word

・その他:「ふりがな」あり / 一部本文補足加筆あり(【例】起って→起こって) / 話者表記あり

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