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性別に付随するもの 【考えごと】
女性という性別に違和を感じたことは無いと思う。多分。多分というのは、まず自分はあまり自分の性別に関して自覚的に生きていないのだなというのが最近の発見で、会話の途中で私が女性であることを大前提とした文脈で話が進んでいることに気づいて慌てることが度々ある。
そして私から他人を認識する時の識別項目の上位にも「性別」は無い。何があるのかというと、根明なのか、コミュ力高いか、私をアウトドアな帰国子女に分類してちぐはぐな偏見や嫌悪を向けてきそうか、などである。要は怖くて性別どころではない。名前と同じぐらいどうでもいい。対峙する相手が花子だろうと晋三だろうとエリザベートだろうと、中身は何も変わらないわけで(本人としてはだいぶ心境が変わるとは思うが)、性別を人の中身と結びつけるということをあまり日常的にやってこなかった。
でも人と話していると、いかに識別項目の上位に「性別」があるかを痛感するし、そこに付随する「女性はこう、男性はこう」みたいな、固定観念と言えばいいのか偏見と言えばいいのか社会的役割と言えばいいのかみんなが演じたがっている像と言えばいいのか、とにかく何か大変凝り固まったイメージがセットでついてくる。そこに違和を感じる。見られ方、解釈のされ方、型の押し付けられかた、扱われ方、向けられる言葉、文脈、自分が自分として見られていない感覚。
今の世界を大前提として、自分にしっくり来る性別とスタイルがあるとすれば、恐らく男性に生まれ、伸ばした髪を結んでラフに中性的に振る舞う、だと思う。
ではなく、世界が私を常に私として見てくれるということであれば、そして性別が自分のアイデンティティとは離れた場所にあり続けてくれるのであれば、所謂女性的である日も欲しいし男性的である日も欲しいし、女性的男性的しか言葉を持ち合わせていないからそういう表現になってしまうけど、「今日は猫、明日は虎」とか、「今日はグラタン、明日は生姜焼き」みたいなことで、ああ、もうどうにか説明しようと書いているだけで疲れてくる、どうしてこんなにシンプルなことが複雑化してしまうのだろう女性である前に人間でいさせてもらいたいだけなのに。
最近はYouTubeで見かけたメイクアップアーティスト?のGYUTAEさんが、所謂男性らしいファッションの時はファンから男装と言われ、女性らしい時は女装といわれることが心地いいと話していて、オレが求めてた感情まじそれです。
今現在の長い髪は気に入っている。無造作な感じも、触り心地も、緩やかなウェーブも、放っておけばいい気楽さも。でもその記号を通して世界が見ているものに耐えられなくなってきている。週末、バッサリ行ってしまおうか。
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