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針を置いたらあの海へ 第8話


<ここまでのあらすじ>
色盲のニット男子レオ(17)と、彫り師たっちゃんさん(28)は、たっちゃんが眼を貸してニットを編み、レオがデザインセンスを貸してタトゥーを描くバディとなる。

レオはかねてから、唐戸市場の寿司を食べるため下関に行きたいと思っていた。
たっちゃんは、想いを寄せた「一馬(かっちゃん)」を偲び彼の故郷である門司に行きたいと思っていた。
かつてたっちゃんは、勢いで、自分が同性愛者であることをカミングアウトし、それがきっかけとなって一馬は事故死してしまったことを悔いていた。

たっちゃんへの恋愛感情を自覚したレオは、たっちゃんに請われた「門司に行った証のタトゥーをデザインする」という役目を果たし彼を救うことを目的に、関門海峡に向かうことを決意した。


 旅行当日の朝、重たい荷物を抱えて、ばあちゃんのカフェ及び自宅及びたっちゃんさんの店の最寄り駅に集合した。
「おはよ!レオちゃんと寝てきた!?俺あんま寝てない!楽しみすぎて」
「おはよ。まぁ、寝不足、かな」
 駅に来るだけで汗だくになったのに、そしてたっちゃんさんだって汗だくなのに、なんでこんなに元気なんだ。俺は昨夜やっぱり、あんまり眠れなかった。楽しみではあるけれど、不安の方が断然大きい。どうせ今晩も明日もよく眠れないだろうに、大丈夫なんだろうか。
 だいたいたっちゃんさんは、この旅に行く理由をあんなにシリアスに、切々と語っていたのに、俺より楽しもうとしている。何なら、たっちゃんさんを門司に連れて行くことが、半分俺の旅の目的になってしまっている。
 羽田に着いてからも、たっちゃんさんは引き続き元気だ。しかも、あぁ無理に元気出してるな、空元気だなという感じがしない。通常営業のちょい上、くらいの説得力ある元気さだ。
「ねぇ、すごいわんぱくなおにぎりあるよ。いくらと鮭。めっちゃ大きいよ。これ朝ごはん代わりに食べていいかな」
「いいけどさ、これ北海道のやつじゃん、今から山口行くんだけど。すげーお腹いっぱいになりそうだし。昼飯入るの?」
「じゃあ俺だけ食べるから、レオは指くわえて見てれば」
「俺も食うよ」
 コンビニおにぎりの二倍くらいある、いくらと塩鮭がたっぷり詰まったおにぎりは、ちょっと温かくてすごくおいしかった。
「おいしー。次北海道行こうか」
「いや、俺もうすぐ学校通うし」
 この次の旅行なんて不確実な約束は出来ない。果たせなかったときに悲しくなるだけだ。でも、北海道は行きたい。あぁ、今「行きたい」と思ってしまったから、この先誰かと北海道に行ったら、「あの時たっちゃんさんと北海道行きたいって思ったな」って思い出すんだ。もう未来のことは何一つ言わないで欲しい。
 寝不足な俺たちは、わんぱくな炭水化物を胃に入れたおかげで、離陸前に爆睡した。俺はたっちゃんさんよりいくらか早く入眠したらしく、
「レオせめて離陸してから寝て。エンジン音が鼾に太刀打ちできる状態になったなって確認してから寝て。俺同行者じゃないですって顔したくなったよ」
 とまたクレームを付けられた。
「離陸の怖さから気逸らせて良かったじゃん。つか、たっちゃんさん夜寝るとき大丈夫なの。途中百均寄って耳栓買って行ったら」
「もう買ってある。預け荷物に入れちゃっただけ」
 不安だったけど、滑り出してみればいつもの俺たちだった。離着陸の気圧変動で腹の中のおにぎりは圧縮されたのだろうか、正午にはすっかり腹が減っていた。これは昼の瓦そばも美味しく食べられることだろう……と思いきや、目当ての店は待ちの客が十組以上いた。お盆休み真っ只中で、しかも県内で大規模な花火大会が開催される当日。ちょっと考えればこの事態は想定できただろう。あるいは、ルイに旅行プランの事前チェックを頼むべきだった。
 苛立ちかけていた俺を他所に、たっちゃんさんはゆったりと、
「おにぎり食べといて良かったねぇ。あのおにぎりもさ、午前中には売り切れるらしいよ?ラッキーだったね」
と言った。
 俺は人を見る目がある、と感動した。たっちゃんさんの友人たちは、すぐにでもたっちゃんさんとの旅行を検討すべきだ。同行者の鼾への備えができ、トラブルをトラブルとすら思わず、三十メートル先からでも視認可能だから待ち合わせにも困らない。感動はしたが感動で腹は満たせない。土産物屋の軒先で、昼飯のプランを練り直した。
「俺、食えればもう何でもいい。正直この空腹具合ならラーメンとかの方がうれしい」
「ホントに正直だね。このどう見ても博多ラーメンな店はどう?すぐ近くだけど」
「OKそこにしよう。対岸は福岡だし、下関ラーメンみたいなもんだろ」
 山口県民と福岡県民から追放を喰らって関門トンネルの真ん中で立ち往生しそうな会議の結果、博多ラーメンを二回替え玉した。

 ぱんぱんのお腹を抱え、タクシーで宿に向かった。俺達の泊まる宿は古民家を改装した一軒家で、玄関のタタキのコンクリート土間に丸い石が埋まっているところや、玄関脇の窓ガラスの模様は、ドラマで観たことあるおばあちゃんの家、という感じだった。
「レオ見て、中すっごいお洒落だよ」
「ホントだ、これオーナーの娘さんか息子さんがすげぇ頑張ったのかな」
「いやオーナーが北欧の方なのかも」
 玄関同様、部屋の中も古い日本家屋そのままで、東と南には大きな窓があり、その手前が縁側になっている。しかし、床は無垢のフローリングで、リビングと続き間になっている北側のベッドスペースには、丸っこい花柄の壁紙が貼られている。それこそ北欧の家具メーカーで揃えたのかな、というシンプルな家具がよく調和していた。東の縁側には、二脚の籐の椅子が置かれている。腰掛けて窓の外を見れば、海と、大きな橋。
「えぇ、まって、これ関門橋?」
「嘘、こんな近いか?何かの間違いじゃね?ロケーション良すぎるだろ」
 新宿御苑で、その場の勢いで決めた宿だったからよく見ていなかったけれど、改めてGoogleマップを立ち上げて確認したら、確かに目の前の橋は関門橋で、海の向こうに見える街並みは門司だった。俺の想像する門司は、もっと遥か遠く、目を凝らせば高い建物が見える、位かと思っていたが、実際は大きな川の対岸ぐらいの近さだった。
 はぁー、へぇー、と言いながら、二人とも椅子に腰かけてボーっと窓の外を見ていた。炭水化物を存分に摂取し、暑い中移動した後、空調の効いた部屋で一旦座ってしまったことにより、もうこのまま部屋でダラついてしまいたくなったのだ。少なくとも、俺はそう。二泊三日である、ということも気持ちの弛みに拍車をかけていた。俺昼寝するわ、と言いかけたら、たっちゃんさんが口を開いた。
「なんかさぁ」
「ん?」
「二人で夏休みに田舎のおばあちゃんちに来たみたいだねぇ」
「いや、うちのばあちゃん都会っ子じゃん」
「そうじゃなくて、概念おばあちゃん?みたいな」
「バーチャルばあちゃんか……」
「懐かしいのに最先端だねぇ……」
「………ねえ、絶対俺ら眠いって。睡眠足りてないんだって」
 俺は寝るぞ、と言って、ベッドに倒れ込んだ。ベッドルームの数がどうのとか、実際着いてみればどうでも良かった。たっちゃんさんは、アラーム十六時にするねぇ、と言って同じく隣のベッドに倒れ込んだ。一緒に田舎のおばあちゃんちに来た、はかなり的を射てる、俺たちは本当に兄弟的な絆を感じてるだけなのかもなぁ、と思いながら眠りに落ちた。
 十七時、俺はボーっとした顔のまま、ふぐ料理屋に居た。ここはさすがに、一ヶ月前から予約しておいた。俺が「まぁ下関行ったらふぐは食うだろ」と言ったから。とはいえ俺の小遣いで食べられる訳ないし、たっちゃんさんに奢らせる額じゃない。概念でもバーチャルでもない、俺のリアルばあちゃんが、たっちゃんさんに「これで美味しいもの食べて来てね」と餞別にいくらか包んでくれて、旅行中の食費は全てそこから出ている、らしい。詳細はあえて聞かない。
「レオ、ありえない。これからふぐ食べるのによくそんな眠そうな顔で居られるね」
「あーごめん、半端に寝るといつまででも眠いわ」
「もっとテンション上げてよ。例えレオは実家で食べ慣れていたとしても絶対そんな素振り出さないでね?」
「流石に食べ慣れてはいないって」
 もう料理を注文し終えているのにたっちゃんさんは、あーヒレ酒、いいなぁ……と言いながらメニューを眺めている。
「飲めば?ヒレ酒」
「いやぁでもさ、未成年引率してるしさぁ」
「別にいいだろ、俺あと半年ちょっとで成人するし」
「うわ、そっか、レオ十八歳で成人する世代か。じゃあいっか」
 根拠がよく分からないけれど、たっちゃんさんはヒレ酒を飲むことを自分に許した。その調子でもっと自分に甘くなれよ、と思いながら、嬉しそうに注文する横顔を見ていた
「あ、ねぇヒレ酒飲むとこ動画撮っていい?」
「えっ、何で?」
「ルイが喜ぶ」
 推しの喫煙にあれだけ沸いていたルイのことだから、飲酒シーンはさぞかし嬉しいだろう。しかもヒレ酒、かなりレアな映像だ。もうあいつへのお土産は特にいらないかな、と思いながら、おしぼりで湯呑みを包んでニコニコしているたっちゃんさんを動画に納めた。ルイちゃんごめんね、いただいてまーす、というファンサービス付きだ。何にごめんなのかは分からないが、天を仰ぐルイの姿が目に浮かぶ。
 撮りながら俺もニコニコしてしまっていることに気付いたが、もう手遅れだ、と思ってずっとニコニコしていた。
 花火の時間までにちゃんと食べ終えなきゃな、と思っていたけれど、それは杞憂だった。ふぐ刺しも唐揚げもふぐちりも、俺らは喋りつつも一気に食べ終え、十九時には店を出ていた。外はまだまだ明るく、そしてお腹もまだいっぱいではなかった。
「レオ、宿で『おかパー』する?」
「おかパーって何だよ」
「お菓子パーティー」
 どこの方言だか知らないが、当然通じるみたいな顔で言わないで欲しい。
 コンビニで飲み物とお菓子をカゴに入れていく。窓を開けて花火を見ることになるから、蚊取り線香も。テレビの中でしか見たことの無い渦巻きの蚊取り線香が、コンビニに今も売っているということに衝撃を受けた。いよいよバーチャルばあちゃん家に帰省した気分だ。
 デザートコーナーのプリンを手に取ったら、たっちゃんさんが瞬時に反応した。
「あ、ズルい!デザート系買う時は一言言おうよ、レオが食べるの見てるだけになるとこだったじゃん」
「声でけぇな、コンビニのプリンで大人が騒ぐなよ」
「いや、持ち駒にプリンが有ると無いじゃ全然違うからね?」
 普段そんなにでかくないたっちゃんさんの声が、今はハッキリ通るのは、多分酔っているからだ。と言っても、顔は全然赤くない。いつもより二割増しで楽しそう、という感じだ。あと約二年半後、二十歳になったとき、一緒に飲んでくれたりするんだろうか。そしたら二割増しが二倍で四割増しになったりするんだろうか。
 別に恋愛とか関係なく、二年半後も仲良くしているかどうかって結構微妙なとこだよな、と思った。何せ俺は、ルイ以外の中高の同級生とはほぼ縁は切れている。それに二年半って、二十歳の時点でも人生の一割以上だ。決して短い期間じゃない。俺は、人間関係を維持する練習を怠ったまま、いきなり本番を迎えてしまった。
 宿に戻る道はもう花火の見物客でごった返している。つくづくあの時宿を取って良かったと思ったし、そもそも宿を取れたことが奇跡のように思えてくる。せっかく特等席を確保できたんだから真剣に見なくてはなるまい。大急ぎでシャワーを浴び、打ち上げ開始の十分前から椅子に座って待機した。
 ガラス窓と網戸を開け、蚊取り線香に火をつけた。湯上がりだからなのか、暑いからなのか、髪の生え際にずっと湿り気を感じている。その隙間を、蚊取り線香の甘いような香ばしいような匂いを纏った、ぬるい風が通り抜けた。
「たっちゃんさん、花火何年ぶり」
「ちゃんと見るのはねぇ、八? 年ぶりくらいかな。忙しかったしさぁ」
「大分久々だな。俺は、ちゃんと見るで言ったら本当に初かもしれん」
「マジで⁈」
「子どもの頃はデカい音苦手だったしさ、ちょっと成長したら『どうせ見ても』とか言い出して、母さんもばあちゃんも気使ったんだろうな」
 たっちゃんさんは、気まずそうにもしないし、同情している素振りもなく、
「じゃあ、尚更今日は、楽しめるといいねぇ」
 と言った。
 一発目がひゅるる……と空に上っていく。
 あ、来た! というたっちゃんさんの声の後、火の玉が一瞬消えた。そして嘘みたいに大きな花火がひとつ、ぱっと広がった。額縁に納めて「花火」という題名を付けて飾りたくなるような、非現実的なくらいにアイコニックな花火。斜に構えずに正面から見た花火は、美しく正しく丸かった。
 海面上でクロスする何本もの線状の花火、その上にリズミカルに、小さな花火が咲く。その造形美に見とれていると、数秒後にははるか上に、白く大きな花火が上がる。それは、あっさりと夜空に溶けていくのではなく、星を振りまくようにきらきらと瞬きながら、数秒掛けてゆっくりと去っていった。
 菊の花のように光の線が垂れていくもの。光がゆっくりと大きく広がっていくもの。前の花火が残す光のその上に、次々と咲いていくもの。写真や映像から生まれた、俺の想像の中の花火が、毎秒塗り替えられていく。気づけばずっと口が開きっぱなしになっていた。
 これまでの花火は前哨戦でした、とばかりに大きな花火が上がった。と思ったら、次の瞬間からはそれが普通のサイズであったかのように、次々と大きな花火が空を埋め尽くし、やがて巨大な花束になった。
 俺は今、美しいものと対峙しているただの生き物だ、と思った。
 カフェのことも、退学した高校のことも、これから通うだろう高校のことも、ばあちゃんもルイも母さんもかつての同級生たちも離れ、ただひとつの生き物として、この場に自分と花火しかないような、そんな気持ちになった。
 でも、違った。左から「わぁ……」と声が聞こえる。
 少しだけ左を見た。俺と同じく、美しいものと対峙している、人間がいた。それは、俺が好きになった人。
 俺はもう一度、まっすぐ空を見た。今この瞬間、俺は好きな人と、同じ美しいものを、同じこの光景を見ている。曇りのない幸福感が涙となって溢れた。
 人を好きになるのは、怖い。この先にあるかもしれない欲情が怖い。俺の中に生まれるかもしれない甘えや怠惰、嫉妬や傲慢が怖い。いや、今だって甘ったれで怠惰で傲慢だけれど、それを野放しにして嫌われたり傷付けたりすることが怖い。トンネルの先、見えない何かが怖い。
 だけど俺は、人を好きになったから、誰かと同じ視界を共有するというシンプルな喜びを知った。周囲が性に目覚めてから今日まで。約七年間の苛立ちや諦めや苦しみと、花火が打ち上げられる三十分間の幸福と。全然割に合ってないけど、俺はこの人生で良かった、と思った。そして、明日も俺のまま、この身体と心のまま目を覚ましたいと思った。
 一発目の花火の五倍はありそうな、大きく、そして繊細な線で出来た花火が、間を置かず何発も、何十発も、和太鼓の演奏のように打ちあがり続けた。高台の下から拍手と歓声が聞こえてくる。そして、十五秒ほどの静寂の後、今日一番の大きさの花火が上がり、その破片がきらきらと舞い落ちた。夜空はとうとう、暗いままになった。
 見物客から再び拍手が上がった。ずっとそこに居たはずの何百人もの人達の存在を、三十分ぶりに感じた。
 たっちゃんさんが、
「あーよかったねぇ、職人さんたちお疲れ様です」
 と言いながら拍手した。もちろん、俺も。二人で両側から窓を閉めながら話す。
「凄いね、レオいつになく穏やかな顔してるね」
「いいもの見たからね」
 自分でも驚くほどスムーズに言葉が出てくる。今ならこのまま、もっと大切なことが言えるんじゃないか、という気がした。椅子に腰かけ窓の外を見たまま言った。
「あのさ」
「レオと一緒に観られて良かったよ」
 ほぼ同時に、言おうとしていたのと同じ趣旨のことを言われてしまった。自分が思ったことを、相手の声で聴く。それが嬉しかった。花火見て感動して、一緒に観られて良かったと言われて喜んで。俺は至ってふつうの感性だ。つまらないほどにふつう、でも、その感動と嬉しさと幸福は、つまらなくない。
 気持ちを伝えたい、と思った。ふつうでいい、ベタでいい、ドラマチックでもオリジナリティに溢れていなくてもいいから。
 それは、今言うべきことなんだろうか。明日の夜じゃダメなんだろうか。この後すごく気まずくなったりしないだろうかと心に問いかけた。でも、思い上がりかもしれないけれど、同じものを見て「一緒に見られてよかった」と思った今の俺たちなら、どちらに転んでも、この空間を居心地の悪いものにはしないという、信頼のようなものがあった。
 そしてたっちゃんさんには、「叶わなかったけど間違いではなかった告白」の見届け人になってもらって、それから門司に行って欲しいとも思った。
 二人とも椅子に座ったまま、窓の外を見ながら切り出した。
「あのさ」
「うん?」
「あの、もう、分かってると思うけど」
 俺は所詮まだ子供で、しかも恋愛経験もないけれど、この状況でここまで言ったら、たぶん大体の大人は何が言いたいかわかると思う。ちらっとたっちゃんさんの顔を見た。
 動揺はなかった。もちろん、怯えもなかった。さっきまでと、花火を見た直後と同じようにただ微笑んでいる。俺も、この穏やかさは数分前から引き続いているもの。
 きっと、伝えるだけなら何とかなる、と思った。目が合うのを待って、言った。
「好きだ」
「うん。ありがとう」
 二人とも、変わらず微笑んでいる。
 いや、いた。
 やはり、俺は所詮子供だった。
「……えっ、ありがとうだけなの?!」
「えっ、えっごめん、何か言った方がいいの?」
「いや、普通さ、俺はどうだとかさ、何かあるだろ!」
 あぁー、とたっちゃんさんが言って、首筋をかいた。やってしまった。花火の感動で俺の心は一旦まっさらな状態になったものの、その効果が五分以上持続するほど、俺の“我”は弱くなかった。
 だが、顔が青くなるほどのやらかしではない、と心のどこかで思っていた。こんなもの、俺らの間では日常茶飯事の食い違いだから。
「えっと、とりあえず、おかパーしよっか」
「はぁ?何で今だよ」
「いや、大事なことだけど、重く話すの嫌じゃない?それに長くなるかもしれないし。プリン食べようよ」
 気が抜ける。まぁ重い話するために公園でシャボン玉吹く人だしな、と思い、飲み物やデザートをリビングのローテーブルに集めた。椅子でもソファでもなく、床に直接胡坐をかいて座る。
「じゃ、お疲れ様ぁ」
「乾杯」
 俺はコーラで、たっちゃんさんはペットボトルのコーヒー。
「レオはカフェで働いてるのに、プリンにコーラ合わせるんだね」
「いや、この後ポテトチップス食べるだろ。コーヒーとポテチは合わない」
「スタバではポテトチップス売ってるよ……で、さっきの話ね。俺はさ、まだ『ありがとう』までしか言っちゃダメなんだよ」
「何でだよ」
「だってレオ、未成年だし。今は違うけどもうすぐ高校生だし。まぁ定時制だから高校生って言っても色んな年齢の人いるけど、母校の後輩だし、何となくねー……」
 年齢制限だったとは。想像以上に事務的と言うか、常識的な理由だった。
「じゃあ、さ。未成年でも高校生でもなくなったら、どうなの」
 あー、うーん、と言いながら、たっちゃんさんが言葉を探している。いやいや、ここら辺は全然想定できるだろ、答え用意しとけよ、と思ってしまう自分に驚いた。婉曲的な告白に留め、その後も一馬さんを慮ったたっちゃんさんとは、心根が違いすぎる。たっちゃんさんには俺である必要はあんまりないけど、俺にはたっちゃんさんみたいな人しか対応できないだろうな、と思った。
「まぁ、今の時点でさ、年齢的な部分しか理由に挙げないってことで、察してくれない?」
 あっ、と思った後、顔がどんどん熱くなるのが分かる。俺が「答え用意しとけよ」と思っている間、たっちゃんさんは「察し悪いなこいつ」と思っていたのかもしれない。ルイが、首と肩がカチカチに凝りそうと言っていたのを思い出す。一日分の凝りが急にのしかかってきた。
 あからさまに動揺している俺を見ても、たっちゃんさんはニヤニヤはせず、ニコニコしているだけだ。やっぱり俺とは心根が違う。察し悪い奴にも分かるように説明してもらったから、ちゃんと返さなくてはいけない。
「あのさ、俺、元々ね、元々十九になる年には卒業するつもりだったから。だからまぁ、一年半後には卒業してると思うけど?それまでは引き続き、よろしく、ってことでいいわけ?」
 俺はすごい。こんな弟分現れたら、一馬さんってどう思ってたんだろう。何だか、真面目な長兄、優しい次兄、我儘で横柄な末っ子って感じだ。俺だけ持て余されてそう。自分にがっかりして、後ろのソファの座面に頭を埋めた。
「俺、何でこんな捻じ曲がってるんだろうね。たっちゃんさんよく平気でいられるね……って、これは別に『そんなことないよ』待ちじゃないから……とか言うところがさぁ!俺はさぁ!」
 ソファに押し付けた頭をグリグリ回していたら、たっちゃんさんが
「レオ、落ち着いて」
 と、優しく肩を叩いてきた。
「俺は、そういうストレートじゃない所が面白いと思ってるし、自分と全然違うところが、いいなって思ってるよ。レオ結構我儘だけどさ、その分俺一人じゃ出来ないことがレオとなら出来るし、こうやって引っ張ってきてもらえたし」
「我儘だとは思ってるんだ」
「逆に思われてないと思ってた?」
 たっちゃんさんが冷静に俺たちを客観視出来ていて安心した。向かい合ってもう一度、ちゃんと言い直した。髪はきっとボサボサなんだけど、もういい。
「最短で卒業できるように、頑張るからさ、それまで、待ってて欲しい」
「はい、引き続き、同じ感じでね、よろしくお願いします」
 いつもの俺達のまま、大分先の約束をした。たっちゃんさんがしみじみと言った。
「レオはすごいね」
「え、何が」
「うーん、だってさ、だいぶ動揺したり凹んだりしてるのに、結局レオのペースになったし、ちゃんとお互い伝えきったし。俺も……」
「俺も?」
「こんなふうに、出来てたらな、と」
 え、と俺が言う間に、たっちゃんさんは無言で俺に背を向けた。新宿御苑で、淡々と語り切ったたっちゃんさんが、言葉に詰まっている。その背中に手を当てると、少しだけ震えていた。
 たっちゃんさんのくるぶしに、蚊取り線香の煙を掻い潜った蚊が止まっていた。じっと動かないそいつは、今頃血を腹に蓄えているのだろう。叩いてやりたいが、それはたっちゃんさんを予告なく叩くことになってしまうし、「蚊が居るよ」と声を掛ける気にもなれない。指先を近づけてそっと払いながら、俺は、たっちゃんさんの長身を支える、タトゥーを纏った足首が、想像以上に細く肌も白いことに気が付いた。
 花火の消えた関門海峡の対岸に、門司の灯りが見える。一馬さん、もうたっちゃんさんを、此方に返してくれないか。いや、あなたは連れて行ってはいないだろうけれど、たっちゃんさんは、彼方に引っ張られたままなんだ。
 俺が気持ちを伝え、たとえ振られても普段の俺達の空気感のまま居られたなら、それがたっちゃんさんの救いになるって、思ってた。過去に戻って、「するべきでなかった告白」を上書きできる、そう思っていた。でもそれは俺の思い上がりだった。起きた出来事の上書きは出来ず、たっちゃんさんの後悔は彼にしか乗り越えられない。俺が告白したことで、俺達は似た道を辿りながらも、全く別の個人であるということが、かえって浮き彫りになった。
 俺が出来ることは、過去を納めに行く手伝いだけだ。だから俺は明日、絶対に、たっちゃんさんを門司に連れていき、そして振り返らせることなく、下関まで連れて帰る。



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