見出し画像

アフリカで学んだシェア(共有)の考え方。私のものはみんなのもの

★★★★★★★★★★
S.C.P. Japanのウェブサイト・SNSです。

★★★★★★★★★★

音声バージョンはこちら

いつもコラムをご覧いただきありがとうございます。2020年5月から初めて週1の掲載も半年継続しています。今後ともどうぞよろしくお願いします。

今回は「シェア(共有)」について、私の体験談を1つご紹介させていただきます。おそらくアフリカでお仕事されたことある方には共感いただけるのではないかと思っています。

私は2015年の1月から6月までの半年間、アフリカのザンビアで生活していました。ザンビア人ファミリーのお宅にホームステイをさせていただき、ザンビア人だけで運営されているNGOにインターンして、ザンビア人の子供たちと関わっていました。その時に感じた「シェア(共有)」の考え方の違いが私の中では衝撃でしたのでご紹介します。

コーヒーのシェア

ザンビアに行く前に私は、スウェーデンとアメリカに合計約4年半住んでいたのでコーヒーが大好きになっていました。(おそらくカフェイン中毒だったと思います)。アメリカはコーヒーか水か炭酸飲料かの選択肢でしたので、朝から晩までコーヒーを5-6杯飲んでいました。スウェーデンでは「フィーカ(fika)」という時間が午前中と午後に1回ずつ設けられているくらいのコーヒーの文化があり、濃いめのコーヒーを1日4-5回楽しみます。既にカフェイン中毒だった私はザンビアでもコーヒーが必需品でした。。。

ザンビアのオフィスには粉コーヒーが置いてあり、みんなでシェアをして飲んでいました(ザンビアはコーヒーは文化ではないのでちょっと贅沢品です)。みんなオフィスに来ると一杯ずつ入れて飲みます。私も頂いていました。しかし、その当時カフェイン中毒であった私は1日のカフェイン摂取量がコーヒー1杯では全く足りず、コーヒーを沢山飲みたくてしょうがないのです。でも、オフィスでみんなが毎日1杯ずつ飲むコーヒーにこれ以上私が手を出してはいけない。と思い、自分のお金で粉コーヒーを購入して飲むことにしました。もちろんオフィスの皆にも「もし飲みたかったら飲んでね」とも伝えた上で、机の上に粉コーヒーを置いておきました。

2日後、新品で満タンの状態で購入した私の粉コーヒーは全てなくなりました。。。「えっ?みんな私のコーヒー飲みすぎじゃない?」と少しの戸惑いがありました。私に「Ayaコーヒー頂戴」と言ってくれた量以上のコーヒーが異常な速さでなくなりました。。。。「なぜこうなるのだ?」。。。さすがに2日1回の速さでコーヒーがなくなるのは私のお財布事情的にも辛い。。その時点ではあまり良くわかっていない私は次の満タン粉コーヒーから別の作戦を取ることにしました。

「私がいない時は私の机の中に粉コーヒーを入れておこう」

コーヒーの消費量が激減しました。もちろん、「Ayaコーヒー頂戴」と声をかけてくれる人には喜んで共有しますが、私がいない間になくなるということがなくなったのです。「おお!これくらいならいいんじゃないか」と私は満足気でした。しかし、だんだんと周囲の私に対する目線がおかしいことに気づきました。みんな私を変な目で冷ややかな目で見ている。。。「なぜみんなそんな目で私を見るのだろうか?」、「私がいない間にコーヒーが飲めなくなったのがそんなに嫌だったのかな??」

いろいろ考えを巡らせ、ザンビア人の行動を観察しているうちにあることに気づきました。

オフィスで働くザンビア人はいつも何かを買うとみんなでシェアをするのです。誰かがバナナを買ったら、買った本人が食べるバナナの量は4分の1程度であとはみんなでシェアして食べます。落花生を買っても必ず私にも数粒くれてみんなで食べます。別に今日のお昼に落花生もバナナも私はいらないのだけれども、私の意思とは関係なくシェアしてくれます。

お弁当のシェア

また、ある別の場面でのことですが、スラムの子どもたちを連れてサッカートーナメントに出ました。途中お昼を挟むので私は適当に家でサンドウィッチを作って持っていきました。お昼の時間になり私のチームの子どもたちがお昼を食べ始めました。どう考えても一人前以上の量をタッパーにいれて持っている子どもが目立ちました。

1人の子どもが私に近づいてきて、「食べる?」と聞いてくれました。私は自分で食べるサンドウィッチがあるし、その子がお腹いっぱいになった方がいいと思い。「大丈夫だよ。お昼持ってきているから。いっぱい食べな」と断ってしまいました。その子は少し悲しそうに、不満そうに、「分かった」と言って去っていったのですが、その表情の意味を私はすぐに分かりませんでした。

ご飯を食べる子どもたちの様子を見ていると、それぞれが持ってきたタッパーを並べてみんなで食べているのです。そして、はっとしました。確かにこうすればご飯を持ってこられなかった子どもが嫌な想いをすることがない。お弁当はそもそもシェアすることを前提として保護者が子どもたちに持たせているのだろう。そしてこのシェアされたご飯を食べる人たちが彼女たちにとっての「仲間」であり「チームメイト」ということなのかもしれない。。。

だから私に「食べる?」と言ってくれた子は私を仲間だと思ってくれたのかもしれない。そしてそのシェアを断った私の行為は「私はあなたたちの仲間じゃない」というメッセージになってしまったのかもしれない。そんなことを考えて、なんて傷つく行為を私はしてしまったのだろうかと、反省しました。

私のものはみんなのもの:共有の捉え方を広げてみる

オフィスでの体験や子供たちのご飯の現場を観察する中で、「共有」の捉え方が、ザンビアの文化とこれまで私が生きてきた文化とでは違うのだと気づきました。ザンビア人にとって「私のものはみんなのもの」で、その「みんな」とは働く仲間でありチームメイトであり、時間を共に過ごす人々のことなのです。だから私が購入した粉コーヒーを誰もが手を伸ばせるところに置いておいたら、それはみんなの共有物だから断る必要もなく当たり前に普通に飲むし、そんな共有物になっていた粉コーヒーを私が自分の机に収納するという行為は、「あなたたちとは共有しない=仲間ではない」というメッセージに取られてしまったのかもしれません。とても反省しました。

ここから有料記事となりますが、最後のまとめの数行のみを有料部分としています。内容自体は無料部分で全てカバーされています。本記事を読んで、「新しい視点を得られた」、「S.C.P. Japanの活動を少し応援したい」と思っていただけたら、有料記事を購入いただけますと幸いです。よろしくお願いします。

ここから先は

299字

¥ 200