精神科の臨床経験が増えたからといって、コミュニケーション技術が自然に見つくわけではないよという話
こんにちは!小瀬古です。
絶賛、めっちゃ頑張って本を執筆しています!
今日は、「精神科領域で働いている支援者さんが臨床経験が増えたからといって、コミュニケーション技術が自然に身つくわけではないよ」という話をしようと思います。
コミュニケーション技術は基礎看護技術のひとつ
まず前提として、コミュニケーション技術は、基礎看護技術のひとつだということがあります。
基礎教育で、よく使われている医学書院から刊行されている系統看護学講座の基礎看護技術にも「コミュニケーション」という目次があります。
そうです、、、コミュニケーションは看護技術のひとつなのです。
なので、当然ながら医療処置同じで、臨床経験が増えたからといって、自然に身につくわけではありません。
もちろん、センスのある看護師さんは何となくでも上手く接することができるかもしれませんし、年数が経過すれば経験が積み重なって、何となく上手くできることもあるかもしれません。
しかし、それだけでは一貫性がなく、患者さんへの対応に大きなばらつきが生じます。例えば、よくあるのは「得意な患者さん」「苦手な患者さん」という枠組みで、自分の不得意ができてしまったりです。
そして、苦手な患者さんを担当することになり、うまくいかなかった場合には「あの患者さんは理解が悪いからな…」と、患者さんのせいにすることがあります。
しかし、本当に考えるべきは、「自分のコミュニケーションはどうだったか?」という点なんですよね。だって、看護技術なのでね、、、
よくよく考えてみると、「医療処置がうまくできなかったのは、患者さんのせいだよね」とはならないと思うんですよね。
コミュニケーションも同じなのですが、なぜかそうなってしまう。で、何でだろうと考えてみたのですが、コミュニケーションって看護以外の場面でも使いますよね。
そのときに技術として使うというよりも、普段の会話として使うことが多いと思うんですよね。普段のコミュニケーションって、家族や仕事仲間なんかとのコミュニケーションが多いと思うので、「一緒に過ごす時間が多い人=コミュニケーションをとる場面が多い人」との交流で使われるという前提があります。
つまり、ベースのコミュニケーションの量は多いし、お互い一緒に過ごす時間も多いので、何となくでもコミュニケーションが行えていけるというのはあります(ノンバーバル・コミュニケーションも含めて)。
それに比べて他の看護技術って、普段の生活で使うことは滅多にないし、自己流で医療処置していたら大変なことになりますよね。でも、コミュニケーションは普段の生活の延長線上にあるので、「技術として学ぶ」という認識にはなりにくいのかもと思います。
例えば「傾聴」という技術
例えば、コミュニケーション技術のひとつとして「傾聴」という技術があります。普段の生活で傾聴って言葉は使わないけれども、看護の現場では、よく使われる言葉ですよね、
なので、私は「傾聴」も看護技術だと思っています。でも、その「傾聴」の技術を学んでいなければ、再現や応用は難しく、何となく患者さんの話を聞いて終わってしまったり、何となくの感覚でアドバイスしたりしすることがあります。
で、この何となく聞いて終わり、何となくの感覚でのアドバイスは『傾聴風』であり、本当の『傾聴』ではありません。では、傾聴ってどんな技術なの?というと、、、
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