見出し画像

芸術作品のごとく、人生を創造するのだ

「人生を豊かに、軽やかに生きるための方法100選」

近年は、上記のような自己啓発やビジネス本を、
書店に出向けば飽和状態なほど見かけるものだ。

「秒単位の即レスを心がけよ!」

「12時までに400カロリーの食事を摂るな」

「どうやって話すかより、何を話すか」

など、多くは実践的で日常的に役立つ情報なのは間違いない。


実際に行動に移さなければ効果はないが、
やはり「やり方よりあり方」、個人の心の持ちようが実質的に重視されるに越したことはない。


自己啓発本の金字塔、「7つの習慣」が30年以上に渡り支持される理由もあり方を重視する。


本書の中で、今回最も印象深い箇所を紹介したい。

紹介された習慣の一つに「インサイドアウト」といった概念がある。

この概念は、外側に原因を委ねるのでなく、自分自身の行動によって一変させられる意味を持つ。

その際、全ての原因には自分の責任もあると自責思考を重視する概念だ。





例えば、要領が良く仕事ができるAと、
手付き不器用で時間も完成度もいまひとつなBがいたとする。

電光石火の速さで仕事を終わらせ、かつ申し分ないクオリティで仕上げるAにとって、
仕事を覚えず足を引っ張る、のび太のようなBの姿は腹立たしい。

ABに恨みを持ち、日常的に激しく責め立てる。
「お前の失敗が原因で、全体に迷惑がかかってるんだ!」といったように。

さて、真の意味で失敗の全責任がBだけに課されるのかと問われれば、そうではない。
むしろ、失敗の責任はパーフェクトヒューマンのAにも残る。

Bに与えられた仕事は全部Bの仕事だと分断せず、
もし手の空いたAが、Bに丁寧に仕事を教えていたならば…

あるいはABに対して発する言葉や態度が、仕事の恨みを含むのではなく、普段から誠実に接していれば… 

と、Aが行動を変える事で、今にも未来にも生じる結果はまた違ってたかもしれない。



成功者にとって必須なマインドがだから主体性こそ、
日常的な出来事を、いかに自分ごととして考えられるかが、成功者か凡人かを分断する要素なのだろう。


主体性について20世紀を代表する、
フランスの哲学者サルトルも過去に「アンガージュマン」の言葉で提唱している。

アンガージュマンとは、主体性な視点で行動する心の持ちようを指した言葉だ。


サルトルが残した2種のアンガージュマンを見てみよう。

「全行為を主体的な視点で観る」

現代の民主主義社会では、自分の行動を主体的に選択する権利が与えられている。

行動・選択全てにおいて「自由」であり、
行動の有無の決定、全てを自己責任で補う必要がある。



「一生において偶発事件なるものは存在しない」

「自分の行動」だけに責任があるものでない。
この社会の仕組みに対しても、全て主体的な選択が可能であると指摘している。

サルトルからすれば、戦争という一民間人が如何ともし難い事件も、外側からやってきた他者の課題とみなす考えを否定する。

あくまでも「私の戦争」が正常。 
反戦活動に身を投じること、ハンガーストライキで徹底抗議する、あるいは命を守るためなら亡命する手段もある。   

にもかかわらず、これらの手段を放棄して世間体を恐れて戦争を受け入れたのならば、
貴方にとっての最終手段はそれまでだったと結論付けられる。



人間の性質上、どうしても自分・内側と外側は全く別世界だと捉える癖が生まれる。

サルトルからしてみれば、上記はとてつもなく邪道な捉え方と否定する。
外側に起こった事は全て私たちの働きかけの結果に過ぎず、現実として投影されたに過ぎないと語る。

私自身も「外側の現実の一部」である。
外側の現実すら「自分ごと」と捉える生き方が真の主体的だと語り、そのような姿勢をアンガージュマンと言葉付けた。




ここまでを振り返ろう。

・私たちは生まれ落ちた瞬間より自由の権利を持つ

・自由を授かった以上、私たちは全行動と選択を、主体的に選別する事を求められる

・外側で起きた現実も、全ては私たちの働きかけで起こった結果であり、自分と外側を切り離そうと考えない


環境、人付き合い、健康、災害、対立…
この世で起きた全行為に対し、受け取った利益不利益も全ては自己責任にある。

精神的な自由には全責任が重くのし掛かるため、
見方によっては非常に過酷な運命を伴う思考法だなとも捉えられる。

だが自己責任を理解し、全てを背負って生きる事を決意し、心赴く道への選択が絶えない人生。

まさしく人生を一種の「芸術作品」のように色濃い一品が完成するだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?