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短編小説『紫陽花』

1
 私は現在、システムエンジニアとして生計を立てている。「上」の指示どおりに二進数の配列を増大させ、その対価として報酬を得ている、という訳である。情報通信技術の世界にも哲学的深淵は存在するのだろう。しかし、そんなことは私には関係がない。必要なのは、「YES」か「NO」か、「TRUE」か「FALSE」か、「1」か「0」か、それだけである。実に単純な話だ。自分の生み出した配列が、結果的に社会にどの様な影響を及ぼしているのかは、私の知るところではない。世の中は私の理解が及ばないことで溢れている。

 私がどの様な人間であるか、自分自身ではよくわからない。多くの人は、私のことを優しい人間だと言う。しかし、ある一定以上の関わり合いを持った人は、私の元を去っていき、二度と戻って来ることがない。
「あなたは、人を手段としてしか見ていないのよ」
昔、誰かにそんなことを言われたことがあった。そのとおりかもしれない。

2
 今朝、私は目覚めと同時に、上野公園で見たガクアジサイのことを思い出した。

 数年前、私はハシビロコウを見るために上野動物園を訪れた。その帰り道、公園に咲いていたガクアジサイが目に止まった。花が手まりのように咲くセイヨウアジサイとは異なり、大型の装飾花が額縁のように並び、その中に碧紫色の小さな両性花が密生していた。暖かな陽の光に照らされて咲き誇る紫陽花の一つ一つが、小宇宙を成しているように感じられた。それ以来、上野公園には訪れることは無かったし、ガクアジサイの鑑賞もしていない。なぜ、唐突にこんなことを思い出したのだろうか。思い当たる節といえば、今日が紫陽花の咲く季節であるということくらいだ。ハシビロコウについては、うまく思い出すことはできなかった。

 そんな事を考えていると、起床時間を知らせるアラームが聞こえた。雇われの身である私は、始業時刻よりも前に、職場に到着しておく必要があった。紫陽花について、いつまでも考えてる暇はない。私は体を起こし、出勤のための準備を始めた。

3
 朝食をとっている最中、再びあの紫陽花のことが頭をよぎった。上野公園に紫陽花を見に行かなければならない、ふとそう思った。行かなければならない。それは、次第に強迫観念のようなものへと変わっていき、理性を超越した本能的な衝動となった。行かなければならない。

 私は会社を休み、上野公園へと向かった。入口の広場にある西郷隆盛像の周りでは、観光客と思しき人々が記念写真を撮っていた。その裏手の木陰には、彰義隊の墓がひっそりと建てられている。記念写真を撮っている人はいなかったが、墓の側のベンチには、中年男性が座りながら項垂れ、力尽きていた。彼の右手には、缶チューハイが握られている。大量のアルコールと人工甘味料が含まれている、格安の缶チューハイだ。彼もまた、何かを守るために戦い、敗れてしまった者の一人なのであろうか。墓前で数分間立ち止まった後、私は動物園のある方向へと歩みを進めた。

 朧気な記憶を頼りにガクアジサイを探していると、すぐにそれを見つけることができた。色も咲き方も、あのとき見たものと同じである。綺麗な紫陽花だった。しかし、それ以上でもそれ以下でも無かった。そこに、小宇宙を見出すことができなかった。それは、とても悲しいことだった。

 目的を果たしてしまった私は、このまま家に帰る気にもなれず、公園内を当てもなく逍遥した。動物園には行かなかった。これ以上、何かを失いたくはなかったからだ。
 数十分歩いた末、私は野口英世像の前に居た。PRO BONO HUMANI GENERIS、像の台座に刻まれたこの文字を見たとき、ベンチで力尽きていた中年男性のことを思い出さずにはいられなかった。彼が幸福であるのか不幸であるのかは、私にはわからない。そんなことは私が決めるべきことでもないだろう。私は、自分が幸福なのか不幸なのか、それさえもわからなかった。
「あなたは、自分が不幸であると思い込みたいだけなのよ」
そのとおりかもしれない。

4
 上野公園からの帰り道、ガラス張りのビルに映る男が、私のことを見つめていた。その男の肩は体の内側に丸まり、背中は屈折していた。不健康な痩せ方をしており、顔からは表情が失われていた。起床時間のほとんどを労働に費やし、それが終わったら寝るだけの一日。そんな一日を五回程繰り返した後、体力と気力を回復させるためだけに設けられた休暇が二日ばかり。そんな一週間。それを繰り返す一ヶ月、一年、一生。老朽化すれば捨てられ、後には何も残らない。時代と時代の間隙を埋めるだけの無名の存在。
 私は男から目を逸し、その場から立ち去ろうとした。
「逃げるな」
男が私に語りかける。
「自分自身から、目を背けるな」
私は、男が居るガラスの向こう側に手を伸ばした。同時に、男もこちら側に手を伸ばす。しかし、ガラスはどこまでも沈黙し、建物の外側と内側を分け隔てていた。

 気がつくと、なにかの予兆や前触れかの如く雨が降りはじめた。しかし雨水は、意味や意義を伴わず、ただ重力によって空から地面へと落ちているだけだった。私は自宅へと戻り、シャワーを浴びてから床に伏した。

5
 古びたボートに乗せられ、暗く広い海の上に放り出されてしまった。周りを見渡しても、水平線が延々と広がっているだけである。空を見上げても、灰色の雲と鈍い光を放つ朧月以外には何も見えない。どこに進むべきなのだろうか、そんなことは皆目検討もつかなかった。
 水面下で、何か禍々しいものが蠢いている。目には見えないが、それは確実に存在し、光の届かない場所から私を飲み込もうとしている。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。何を信じ、何に祈れば良いのか、それさえもわからなかった。私にできるのは、ただ自分に同情することだけであった。

 夢から覚めると、絶望的な気分になった。結局、問題は何一つとして解決していないからである。もうすでに、取り返しのつかない状況に陥ってしまっているのかもしれない。何もかもが、手遅れな気がした。
 それでも、やれるだけの事はやるべきではないだろうか。そう考えた私は、小説を書くことを決意した。それが、何かの解決になるとは思ってはいない。それによって、絶望が希望に変わることも、他の何かが劇的に変化することもないだろう。しかし、それ以外の方法も思いつかなかったし、時間が過ぎ去っていくのを何もせずに眺めているのは、耐え難いことだった。

6 
 私はいつからか、自分が大切にしているものや愛しているものについて、上手く言葉にすることができなくなっていた。
「あなたって、何も話してくれないのね」
「僕はただ、君を傷つけたくないだけなんだ」
「卑怯者!」
しかし、いつまでも卑怯者のまま生きていく訳にはいかない。もう、逃げるのは止めにしよう。

 私が思いつく文章は、どれも凡庸で退屈なものばかりだ。そんな私にとって、小説を書くことは、らくだが針の穴を通るよりも難しいことだと思う。それでも私は、小説を書き続けなければならない。不完全な言葉で自分や他人を傷付けてしまうとしても、語るべきことを語り、伝えるべきことを伝えていかなければならない。そのための努力を続けていかなければならない。私が、私として存在するために。自分自身の人生を歩んでいくために。


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