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福田節郎『銭湯』を読んでの感想、あるいは無意味な文章について

「07月31日までに記事を書くことで連続投稿を3ヶ月に伸ばすことができます。今月もnoteを書いてみませんか?」
昨日、久方ぶりにnoteにログインすると、こんな通知が届いていた。先々月にnoteを再開したばかりだというのに、この体たらく。「継続は力なり」という言葉はよく耳にするが、この点において私はとことん無力なようである。しかし、そんな泣き言をぼやいてみたところで何も変わることがない。どんな形であっても、継続するほか今の私に施せる手段は存在しないのだ。

 そんなこんなで執筆されたのがこの記事である。この記事で伝えたいことなどなく、ただただ投稿を続けるという純粋な目的のために書かれた記事。記事の為の記事、生産のための生産。目的を持たない最も純粋である意味では「本質的」な記事と言えるだろう。
 なぜこんな大胆なことができるかと言えば、明らかに先日読んだ小説の影響であろう。第四回ことばと新人賞受賞作、福田節郎著「銭湯」である。
 この小説の主人公には、夢や目的などといったものを一切有していない。主体性もなく、何かに執着することもなく、楽そうで楽しそうな方向に進んでいく。常に飲酒をしており、それ故か他人との繋がりも希薄である。自分の人生に当事者意識を持っていないのであろう。
 ストーリーの中では、(周囲に流されるままに)事件に巻き込まれていくのであるが、起こる事件の一つ一つは、何かの示唆や暗示がありそうで、全くないと言っても過言ではない。ただ、他人の人生の奇想天外な出来事の断片だけが現れては立ち消えていくだけなのだ。しかし、不思議と物語の中に引き込まれてしまうのは、著者の巧みな文章術のなせる業であろう。 
 人生に決められた目的が無いように、この小説にも目的や到達点は存在しない。それ故、この小説にはテーマといったものは存在しない。否、「テーマがない」ということがある種この小説のテーマなのかもしれない。意味や目的を追い求めることが正とされる社会の中で、無意味で非合目的的な生き方を(その危うさをほのめかしながらも)肯定してくれる、そんな作品であった。

 さて、この記事の長さもそこそこなものになってきたので、ひとまずはここで筆を置くことにしよう。この記事も、最終的には何かの意味やメッセージ性を有してしまった。少なくとも、それが文法的に成立している限りにおいて、またストーリーや話の筋が通っていて、第三者によって何かしらの解釈がなされる限りにおいて、真に無意味な文章というのは存在しないのかもしれない。


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