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小説「大地に落ちる汐の思い出」(連載第6回)

 兄の引っ越しを前にして一月のうちから準備が進んでいた。私もその手伝いをするつもりでいたけれど、兄の住所は私には秘密にされなければならないと言われた。そしてついに転居先は教えてもらえなかった。手伝えることといえば、ただ家で簡単な荷物をまとめる程度だった。
 兄はうれしそうな顔を多く見せるようになっていた。
「絶対に金持ちになってやるよ。下手な学歴なんかより、資格や専門知識がある方が給料は多いこともあるってさ。大丈夫だと思った会社だけど、残業代が出なかったりしたら次に行ってやる!」
 兄は自分の人生がここからスタートするのだと意気込んでいた。


 しばらくの間、兄が去っていくまでの猶予期間が続いた。兄も先生も当たり前のように過ごしていたけれど、内心ではきっとそわそわしていたに違いない。いつも以上に先生は寡黙だし兄は快活だった。ただ私ばかりが不安な顔色を見せていたことだろう。
 夜、布団を敷いているとき、兄は私に言った。
「心配か?」
「うん……」
「俺のことが? 自分のことが?」
 私は素直に答えた。
「どっちも。だって、兄さんがいくらしっかりしていても、まだ十八じゃないか。どこにいるのかも教えてもらえないし。ぼくだって、将来兄さんほどにはやれる気がしないのに、後五年で自分のことにだってなるし」
「いいことだな、前向きじゃないか。これでも俺だって不安なんだよ。一人放り出されるんだから。先生もおまえもいないからなあ」
 でもな、と言って兄は先生の言葉を引いた。
「先生は振り返るなって言ったよ。どんなことがあっても。どんなに後ろ髪を引かれても、過去にしがみついたり未練に思ったりしちゃいけないって。いい励ましの言葉だと思う」
 その夜は床に入りながら、少し遅くまで二人で話をした。折に触れて出てくる先生との毎日が私たちの共通の財産にまでなっていたことに気付いた。
 二月の上旬、私が学校から帰ってくると、もう兄はいなかった。
「もう行ったんですか!」
「新生活を始めるには準備がいるからな。これくらい早くいかなければならないんだ。それに部屋を押さえたときから家賃は納めているんだから」
 兄は卒業式には戻ってくるが、それ以外にはもうここには戻らないのだと言われた。先生は説明こそはしても素っ気がなかった。


 私は一人になった部屋に戻り、がらんとした部屋の真ん中に立った。兄が残していったものは、壁に貼られた風景画のポスターくらいだった。家具はそのままだったけれど、机や本棚の中身は消えていた。それらの空っぽの空間に手を伸ばすと、自分の手が何ものにもぶつからずに宙に浮いた。とてつもない虚無感を覚えた。

 次回へ続く

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