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花束みたいな恋、と思えるのは一体いつになるのかな

共通の趣味をキッカケにジェットコースターのように急発進した恋。
明大前で終電を逃したことから偶然の出会いを果たした麦と絹は、大学生という状況も相まってどんどんふたりの世界にのめり込む。卒業してすぐに一緒に住みはじめ、定職には就かず麦は夢を目指し、絹は生活をするためにバイトをするが、「大人になるということ」を突きつけられやがて就職。
社会の荒波に飲み込まれながら、お互いが好きだったはずのモノやコトたちが、どんどんふたりの距離を引き剥がしていく。
ずっと変わらず、好きなはずなのにね。

『花束みたいな恋をした』を観た人たちみんなそれぞれが、過去のあの人を思い出しているんじゃないかな、と思います。

よくある恋愛映画やドラマは、現実だとなかなか起こり得ないこと、んーそうだな、起承転結の「転」が起こりまくって、それが結果胸キュンにつながったりもするわけだけれど、これだと「あ〜そうですよね映画ですもんねドラマですもんねハイハイ」となり、他人事としか思えないのよ。うん。

この映画は、すべてがリアルすぎた。

ある程度の恋愛経験があれば、どこかしらにグサグサ刺さる共感ゾーンがあって心が死んでいる人が続出しているはず。
坂元裕二さんらしい台詞量の多さと、具体的な固有名詞がバンバン出てくることにより、シーンひとつひとつの解像度が非常に高くなっている。
「いやいやもう情報量多いて!」というくらいには多い。『カルテット』『最高の離婚』『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』、このあたりを観たことがある方であれば「あ〜〜〜」となるかと。そうです、これらすべて、坂元裕二脚本だからです。

ひとつ気になってるのは、この【サブカル要素満載な恋愛映画】と言われている本作品が、【真のサブカルに刺さるのか?】というところである。
まぁ、真のサブカルってなんやねんという話やし、そもそもサブカルってどういう意味でしたっけって話なんですけれども。
そう思ってるときに、kansouさんのこのブログを読んでとても腑に落ちたんですよ。
わたしは自分自身をにわかサブカルな人と思っているわけだが、そんなわたしでも「く〜〜この曲とか本、ここでくるんか〜〜」というサブカルの波?がいっぱいあったわけですよ。にわかサブカルが共感するって、これ真のサブカルからしたらサブカルじゃないやん、と。
ただ、あの冒頭のシーン、終電を逃して男女4人でカフェバーに行ったときにうさんくさい方の男女ペアが「俺、映画好きなんだよね」「え〜わたしも〜なにが好きなの?」「ショーシャンクの空にとか」「わ、なんかそれ聞いたことある〜!」この会話には笑っちゃったよね。

しかし、麦と絹みたいにここまで趣味が合うふたりというのはやっぱり恋がはじまりやすいのだろうか。趣味が合う、ということを好きと勘違いしてしまってるのでは?とも思う。
たぶんそれはわたしが【自分に持っていないものを持っている人】に惹かれがちなわりと対極な人間だからなのかな。一瞬の意気投合はそのあと起こる1ミリのズレが1メートルくらいに感じられたりしてしまうからね。そもそも人間は人それぞれ違う生き物なんだから、気が合うという部分を軸にして人を好きになるのはよくない。うん。

なので、この作品の前半にはそこまで感情移入しなかったのだけど、問題は後半ね。
お互い好きだけど別れる、アラサーに近づけば近づくほど心当たりのある人が増えてくる〜現象の〜ことだよ〜ね。

まだ観てない方でもタイトルとか予告からわかる通り、この作品はふたりの永遠の愛、ではないんだけれども、必ずしもバッドエンドというわけでもないんですよ。お互いの幸せを望んでいるからこそ選んだ別れなんだよね。まさに花束みたいな恋なわけです。結婚してもよかったかもしれないけど、ドライフラワーにして心の中に飾っておくのがいいんじゃないかな。

わたしの中の花束みたいな恋を、今すぐこのようにできる自信はまだちょっとないけど、いつかそうなるといいなと思います。

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桐本 絵梨花
缶ビールが買えるくらいで十分です。あわよくば一緒に乾杯しましょう。ありがとうございます。