スクールロイヤーの考える「なぜいじめは許されないのか」

学校現場に散見される、「いじめは許されないことだからやるな」という上っ面指導への警鐘も兼ねて。

心のコップのたとえ

法律上のいじめが指すものは、一般的ないじめのイメージとは全然違うということと、わたし個人はそれについては「ええやん、素敵やん」という立場であることはこれまでの記事でも軽く触れてきた。

今回は、その理由を少し詳しく説明する。

法律上のいじめの定義が広い理由は、まぁ色々あるのだけど、個人的には心のコップのたとえの話が好きだ。具体的には次のようなものである。

① 嫌なことがあると必ず水が溜まる。

② 水が溢れる=自死、不登校、暴力行為という行動に現れる。

③ 外からコップは見えず、人によって大きさはバラバラであり、上限も下限もない。

これからどんなことが言えるかというと、

・1000人中999人が平気なことでも心のコップが溢れてしまう心のコップの小さな子が観念できる。

・コップがどんなに大きくても、またどんなに些細な嫌なことでも、それをされ続ければいつかコップが溢れる危険がある。

たとえば、「ちょっと嫌なあだ名」を一回言われただけで学校に来れなくなる子がいるかもしれない。また、一回位は全然平気な子も「これくらい大したことないだろ」と放っておかれ、毎日複数の人から呼ばれ続けたら学校に行きたくないと言うかもしれない。どちらも最悪自分の命を絶ってしまうかもしれない。

つまり、子どもの命や尊厳を守ろうと思ったら、たった一滴の水でもきちんと対処しないといけない。「これくらいなら大したことじゃないから放っておいていい」という理由は何もない。

この「たった一滴の水」を法律上のいじめの定義は指し示している、と捉えることができる。

「いじめは許されない」だけではナンセンス

では、こんな法律上のいじめ事案に対して、学校はどういう指導をしたらいいだろう?

まず、こういったものに対して一律「いじめだからやめなさい!」とやるのは間違いだというのは文部科学省も暗に仄めかしてる。

学校 は,「いじめ」という言葉を使わず指導するなど,柔軟な対応による対処も可能である。ただし,これらの場合であっても,法が定義するいじめに該当するため,事案を法第22条の学校いじめ対策組織へ情報共有することは必要となる。(いじめの防止等のための基本的な方針 5ページ)

法律上のいじめと、一般的ないじめが意味するところはちがうので、これは当たり前といえば当たり前といえる。学校が意識して対応しなければならない出来事(法律上のいじめ)と、指導でこれはいじめだ!という場面(社会通念上のいじめ)は全然違うものだ。

そんなわけで、まずそんな安易な薄っぺらい指導をしている学校がいたら、ちょっと考えを改めて欲しい。

また、同じ理由で「いじめは犯罪です!」という弁護士的な一刀両断も私は半分的外れだなと思うので、スクールロイヤーになってからこのフレーズを使ったことは一度もない。

〝手段の選択〟という信念

法律上のいじめ事案への指導を考える上での大事なものとして、〝手段の選択〟という考えがある。

これは、何か真理というより、教育上の理想というか信念と自分は捉えているのだけど、ざっくりいうと、

〝◯◯だから人に嫌なことをしてもいい、という図式は絶対に成り立たない〟

裏を返すと、

〝◯◯のときでも、人に嫌なことをしない形で解決する適切な選択(優しい選択)が必ずある〟

というものである。

例えば、「相手のズケズケとものを言うところが嫌だから、仲間外れにする」のは、手段の選択を間違えているといえる。そうでなく、ハッキリとした言い方で自分が嫌な思いをしてることを伝えて、どうやったらお互い上手く付き合えるか一緒に考えていくことがより適切な選択といえる。

こういった、もっと優しく、上手い方法というのはどんな事例にも必ずあるはずだという信念のもと、場当たり的な対応ではなく、常にこの方法を模索し、子ども達に身に付けさせる。

これこそが、将来の多くのいじめ予防にも繋がる実のある教育指導だと思う。

手段の選択を理念に掲げると、こういった指導のあり方が浮かび上がってくる。

加害行為は、心の水抜きでもある。

「いじめはよくないからやめなさい」という指導は、更なる被害を(ひとまず)やめさせる効果はある程度期待できるので、全く無意味とは決して言わない。

とはいえ、先の通り、手段の選択を教えることは、加害側の心のコップを守ることにもつながる。

先程の説明で特に触れなかったけれども、ストレス発散というのは、自分の心のコップの水を抜く行為、と捉えることができる。

そして、手段の選択で示した例で考えると、「仲間外れにする」という行為は、加害側には、自分がズケズケと言われてフラストレーションが溜まるのを防ぐという側面がある。

これでもし、「いじめはよくないからやめなさい!仲良く同じグループで遊びなさい!」という指導だけで終わらせれば、仲間外れをした子に「ズケズケ言われる」フラストレーションが再び溜まり続けることになる。

そうなったら、一旦我慢したものが爆発して更なる加害をする(イラついて叩く、陰湿な悪口を言うようになる)リスクはむしろ高まる。

再発した場合に、再度加害をした子を「悪い子」にするのは簡単だけど、それはその前段階の指導のあり方の問題だろうと私は思います。

じゃぁどうすればいいんだよ!に真正面からぶつかろう

手段の選択の信念に基けば、指導をするには、まずは「どうしてそういうことをしたのか」をしっかり見極めないといけない。そのためには、加害者とされた子を頭ごなしに叱るのではなく、その動機や思いをしっかり聞かないといけない。

その上で、その気持ちや背景から加害行為以外にどうすればよかったのか、一緒に悩んで見つけていくのが指導となる。

面倒なようで、遠回りなようで、それが同種事案を防ぎ、被害も加害も守る、中立公正な指導のあり方だと私は強く思います。

法律上のいじめはなぜ許されないのか

人に嫌な思いをさせなくても、自分の抱えたモヤモヤや不満を解消する方法は絶対にある。だから、自分の抱えたモヤモヤは不満というのは、人に嫌な思いをさせて良い言い訳にはけしてならない。

人を傷つけないもっといい方法があるのだから、いじめは決して許されない。だからこそ、どうすればいいか、よかったのか、一生懸命一緒に考えよう。

これが私なりの答えです。


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