スクールロイヤー、専門家としての矜持を語る

保護者に毅然と対応できない先生たちへ。

私は専門家、あなたも専門家

これまでもちょくちょくと自分の仕事の専門性を語って来た通り、教育委員会専属のスクールロイヤーとして働く自分は、弁護士という専門家集団の中の、その中でも教育分野特化型のかなりニッチな専門家だという自覚を持っている。

だからこそ、他分野で活躍している弁護士に対しても、一般的な専門性以上の更なる専門性が必要だということをこれまでも書いて来た(ここはまだ書きたい大きな話があるので記事はこれからも増えると思う)。

また、専門家というのはあくまで限られた分野でのプロフェッショナルなので、万能選手ではない。

そして、学校の先生たちは紛れもなく教育現場の専門家なので、お互いのリスペクトも必要だという話も書いてみたり。

その上で、同じ専門家という土俵で話し合う上で、「毅然とした態度に出られない」先生たちに対して、専門家としてここは共通認識として強く持って欲しいところを今回はツラツラと書いてみる。

先生方、あなたは教育のプロです。

これは、先生向けの研修の時には、確実にはっきりと自分が入れているフレーズ。これを言われてハッとしたり、表情引き締まる人もいるのだけど、その前までどんな意識で仕事しとんねん。と思ったり。

医者が保護者から、「私はうちの子がそんな治療で治るとは思いません!」と言われても診断名や治療方針を変えないように。また、弁護士が保護者から「あなたの法律の理解はおかしいです!受け入れられません!」と言われても見立てやリスク判断を変えないように。先生も保護者からどんなに「その指導は間違ってる!!私の子にそんなことはしないでください!!」と言われても、ブレない姿勢を示すべき場面というのは必ずある。

なのだけど、どうも強く保護者に言われると対応がブレたりだんだん声が小さくなってしまう場面がある。そうなってしまうのは、そもそも専門家としての矜持がぼやっとしているからではないか。

専門家が専門家として立ち上がらなければならない場面

専門家としての矜持の話。

あまねく専門家が、その専門性を最も発揮し、矢面に立たないといけない場面、専門家として立ち上がり、踏ん張り、戦わないといけない場面というのがある。

それは、「専門家としての見解が、素人感覚の結論と真逆になるとき」だ。

医者といった専門家がタイムスリップしたり異世界に行く漫画ものとかだとイメージしやすいかもしれない。現代の医学的には当たり前だったり適切と考えている方法を医者が試みようとすると、その時代や世界の常識や一般感覚にそぐわず猛烈な反発に遭う。

しかし、その医者はその専門的な知見と技術を裏付けとして果敢に治療に挑むのだ。

乱暴に言えば。一般感覚の結論の延長にあるレベルの対応なら、素人でも出来てしまうということだ。もちろん素朴な一般感覚を更に昇華させるケースもある。しかし、専門的分野というのが開拓され、自治を許され、裁量を与えられ、素人の介入を許さないのは、多数決で形作られる世論や素人判断では到底導かれなかったり、受け入れられないような結論や手法をとるためだ。

だから、わたしは教育委員会や学校から反対意見を言われるとしても、私は私の専門的な知見に基づいた見解や意見ははっきり伝える。保護者と対峙しなければならない状況で、1時間激昂されようと、法曹としての資質がないと罵られようと、結論は変えない。

これに対して、学校から「弁護士さんははっきり言えていいですね」などと言われることもあるけれど、私に言わせれば専門家であればどんなに悩もうと必要なら最後ははっきりとした意見を言うべきだ。弁護士だから、ではない。

そして、その意見を言うべきかどうかの判断は、「その場で受け入れられそうか」でも、「多数意見か」でも、「世論や一般人にウケがいいか」でもない。「自身の専門的知見にしっかりと裏付けされているのか」によるべきだ。

教育に対する素人たちのいくつかの誤解

少ない例だけど、私が今の仕事を通じて、「違うよ」と保護者にはっきり告げた意見は、たとえばこんな感じだ。

・厳しく指導をすれば、人は反省をする。

・性非行を働く子はなにか異常がある子だ。

・厳しく追求すれば嘘つきは真実を吐く。

え?そうなの?と言う先生が万が一いたらこの辺の議論をしっかり勉強して深めて欲しい。

結果の絶対的な保証はない。大事なのは経過で常に最善を模索し実践しているかだ。

医者も、百パーセントの治療方法は存在しない。

弁護士も、絶対勝てる事件なんてものはないし、絶対に正しい手法なんてのも存在しない。不確かさとリスクの中で悩みながら一つずつ判断している。

この不確かさとリスクへの向き合い方として、刑事事件の第一人者の弁護士の研修で、こんな話があった。

「AもBもできます。どうしますか?と答えのない、結果がどうなるかわからない、我々でも悩むような判断を依頼者に投げ、選ばせるのはまちがっている。我々はプロフェッショナルとしてその専門的な知識と経験を持って、代わりに悩み、責任を持ってAとBのどちらでいくのか提案をするべきです。その上で、自分の選択が最善の結果につながるよう、責任を持って全力で取り組みなさい。それがプロです。」

負けるなプロフェッショナル

教育上の難しい判断が、100%正しかったかどうかなんて、その子の一生の結果をみないとわからないことだ。

だからこそ教育上の判断は難しく、意義深く、素晴らしいものだとおもう。

その重責を認識するのが、先生になる前か、なってからか、はたまたこれを読んだ時かはわからないけれど。先生は全員、プロフェッショナルとしてその重責と、対価として裁量という自由を手に入れ、教壇に立てている。

日々の中で、悩ましい判断や、親の方針に疑問が湧くときもあると思う。その時に自分の考えに自信が持てなければ、他の先生はもちろん、福祉や心理、法律の専門家にどんどん意見を聞いて、何よりしっかりと勉強をして、専門的知見を持って決断をしてほしい。

全力で一つずつ掘り下げれば、他のことにも応用が効く。私自身、今も悩むことも多いけれど、昔悩んで取り組んで勉強し、侃侃諤諤に議論した経験の一つずつが、遠回りなようで、教育分野特化の専門性の基礎として、日々蓄積されています。

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