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Νάρκισσος と水仙の花

ワタクシ、就活というものを始めました。
ここで一筆。

職を探すとなると、まず己を知らねばならないと言われる。

己を知るということは、誠に難しいことである。どう自分を見つめればよいのだろうか。一番簡単な方法は、鏡を覗くことではないか。そこに映った見慣れぬ顔は、ほかでもない己の顔である。

不思議なことに、己の顔はどこか見慣れぬ顔である。ESの締め切り当日の早朝(いや深夜)、タイヤと路面の摩擦音などほとんど聞こえくなった国道の傍にある証明写真機で撮った己の顔は、どこか自分の思っていたのとは違っていた。あるいはかつて修学旅行の写真選びに際して、隣に映る友人の顔はいつも教室で見るその顔であるのに対して、己の顔にはなにか違和感を覚えたこともあった。

己の顔を己の目でもって見つめることができないのは、人間に限らずあらゆる動物に与えられた宿命である。おおよそ鏡が発明されるまで、ヒトは己の顔にやり場のない関心を抱いていたのかもしれない。

あるいはΝάρκισσος のように、水面に映る己の顔にあるとき偶然出会ったこともあったかもしれない。

己の顔が見慣れないのは、小生のだらしない性分のせいも幾分かあるだろう。こまめに鏡を覗いて化粧を正すような几帳面な性分ではないのである。もう少し見つめる回数を増やせばすこしは親しめようか。

さて、「自分が自分にとってどこか余所行きである」という経験は、何も顔に限った話ではない。声も同様である。生まれて初めてテープに録った己の声を聴いた時、私はあまりの可笑しさに半ば絶望したのを覚えている。

では声の余所行きさと顔のそれは同じ仕組みで説明できようか。
似て非なると申し上げたい。

己の声は、聞こうと思えばいつでも聞こえる。自分の耳で聞く「音」が己の本当の声なのか、あるいは他者が聞いている、つまりビデオに録音された変てこな「音」こそが自分の声だと言うべきか。この点は読者に委ねたい。認識の主体をどこに置くかの問題である。重要なのは、あなたが何か声を発するとき、自らもそれを感じ取っているという事実である。※1

では顔はどうだろうか。もちろん人類史を振り返れば、いまほど己の顔に親しめる時代はなかろうと思う。手鏡さえあればいつでも確かめられるし、何より映像技術の発達は己の顔の同定をより容易にした。スマホの活躍も認められる。

しかし、自分の顔に常に対面することは不可能である。否、技術上は可能だが、実際そんなことをする人はおりますまい。他者と話すときに相手をないがしろにして鏡を注視したまま話せば、それは鏡との対話となってしまう。鏡に入った光は反射してそのまま自分の顔の像を映し、自分の瞳に返ってくる。不思議な自己完結トークの完成である。つまり、私たちは自己の顔を認識しながら行動することはあまりないし、そもそも鏡の前に立たねば見ることもできないのである。

さて、そろそろあの意味不明な文字の羅列を紹介すべきかと思う。

Νάρκισσος というのは古代ギリシア語で、英語ではNarcissusとなり、ギリシャ神話に登場するとある美少年ナルキッソスを意味する。詳細は省くが、美少年ナルキッソスは義憤の神ネメシスによって自分だけを愛せるようにされてしまう。ネメシスはナルキッソスを泉に呼び寄せ、彼が水を飲もうと水面に顔を近づけると、そこには美しい少年が映っていた。それはナルキッソス本人であるが、彼は自らに一目惚れしてしまい、水面の美少年から離れられなくなり、やがて死んでしまう。

彼の死後、そこには水仙の花が咲いたそうで、これに由来して英語ではnarcissusは水仙を意味する。そしてお気づきかもしれないが、彼のような「自分大好き人間」を日本語でナルシスト※2と呼び、もちろんこの神話がもとになっている。

ナルキッソスは水面の虚像に口づけを送ったり腕を伸ばしたりするが、そこに映る美少年を捕まえることはできない。波紋が空しく拡がるだけだ。水面に手を伸ばせば、影は壊れてしまう。

この神話をどう読むべきだろうか。「自己愛への批判」というと簡単だが、色んな解釈が可能だろう。社会に蔓延るナルシズムの病理を表現しているようにも思える。

ナルキッソスが水面に見出した愛の対象は、まさに愛する主体ナルキッソス本人であった。すでに同一の、一致「している」存在であり、これ以上一致「する」という起動的な動作は生じえない。それゆえ、虚像の追求は錯乱という結果に終わる。ナルキッソスはその美少年が自分であることを認識できていたのだろうか。もし完全に認識できていたなら、彼は水面から顔を上げ、単に自らを愛せばよかったのではないか。あるいは認識できてはいたけども、どうしてもその虚像を手に入れたかったのかもしれない。

ここで思い出されるのは、冒頭で述べた己の顔の見慣れなさである。どうやら、自分が思い描く己の顔と、実際に鏡に映る己の顔の間には、何らかの「認識の壁」があるようである。ナルキッソスは後者の方が肯定的に感じられたし、私の場合、後者はいつも期待を裏切っている感じだ。※3 声の認識に関してはその主体の位置に左右されたが、己の顔を認識する際には、主体は自らに他ならない。多少、他人に規定されようとも(例えば「イケメンだね」と言われたりとか)、最終的に決定するのは自己である。

鏡に映る顔を好きになれない。これは一種の自己愛の欠如とでも言えようか。私も少しは水面の虚像に手を伸ばすべきなのだろうか。自信、ないしはある種の妥協でもって、鏡に映る顔が自己の顔と同一のものであることを認識せねばならない。認識の壁を越えねばならない。

ここまで「顔の認識」に関して述べてきたが、それ以外の対象に対しても、職を探すうえで自己を見つめる際にはこの自己愛の存在は非常に重要となる気がする。よく言えば、自信の存在である。

自己分析の最大の困難さは、対象である自分の得手不得手の有無や長所短所の有無などではなく、まさに認識の主体が自分自身であるという点にある。言い換えれば、認識の尺度が自分にある、ということだ。物差しをうまく設定すれば自分は想像以上に良きものに変化するだろうし、矮小な物差しで自分を測ればちっぽけな存在に姿を変えるのである。

少しは、自分を愛してもいいのかもしれない。黄色い水仙の花言葉は「もう一度愛してほしい」「私のもとへ帰って」だそうだ。いつから私は自分を嫌いに思うようになったのか、少しは難しいことを考えず、ありのままの自分を愛せたかつての自分に帰ってもいいのかもしれない。

ただし、水仙の花には鎮静の効能もある。人の感覚を麻痺させ、自己満足的な安らぎへ誘う。水仙のお花畑に埋もれたが最後、自分の姿を正しく判断することはもう叶わない。

用法用量をお守りください。


※1 もちろん万人がそうであるとは断言しない。実際、私も片耳がほぼ失聴しているので、半分しか聞こえていない。
※2 日本語のナルシストはオランダ語由来。英語では「ナルシシスト」
※3 後で気づいたが、自分の思い描く自己の顔のほうが鏡に映る顔よりも理想的なのは、一種の自信の表れなのかもしれない。現実から目を背けているに過ぎないのかも。

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