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「私の名前はアシタカです」

ジブリを翻訳なしで楽しめるのが日本人の最大の特権だと思う

YouTubeのコメント欄にあったこの一行に、私は自然と得心がいった。

私はスイスにいた頃に新海誠監督の「天気の子」をネオン街の小道にある洒落た映画館で観たことがある。もちろん音声は日本語で、そこに独語と仏語の字幕がついていた。仏語には無学な私だが、独語は幾分か理解できるので、気になる表現があるとその度毎に字幕を確認していた。

するとやはり、「ははぁ、独語だとそういう表現になってしまうのか」と違和感を感じることがあった。これは決して翻訳者の力不足などではなく、言語間に存在する表現の、語彙の、あるいは世界の捉え方の違いに過ぎない。優越などないと私は信じている。独語にだって、日本人には理解しがたい素晴らしいことばの世界があるはずだ。この世界の片隅に、たった5、6人の遊牧民しか話さない言葉があったとしよう。それは弱くて儚い、弱者の言葉だろうか。違う。それは残りの77億人が味わうことのできない唯一の世界を築き上げるための、魔法の道具であるに違いないのだ。

同じアニメ作品でいえば、ジブリの宮崎駿監督の作品などは、母語話者以外にはなんとも理解しがたい言葉の宝庫だと思う。我々日本人でさえ、作品中の言葉の深みに圧倒され、新たな発見を与えられるほどである。

ジブリの作品には、なんとも言えない深み、厚みがあると思う。単に映像作品として絵が美しい、あるいはプロットが面白いというのではなく、うまく言葉にできない何かを感じる。

これは最近話題になっている新海誠監督の作品と比較すると何だか判る気がする。「君の名は。」や「天気の子」にはジブリ作品のような「何か」をあまり感じなかった。だからと言って作品として劣っているとは思わないが。まぁ、これについてはまた今度書きたい。

このジブリ作品の「何か」は、おおよそ音叉のように特定の波長を描いているように思われる。この独特の波長が、日本人の心の奥底にある音叉のそれと一致し、共鳴を起こすのではないか。

あえて言葉にするなら ー安っぽい言葉になるがー それは日本人の「文化」とか、「価値観」といったところだろうか。

宮崎駿監督の作品では、その不思議なプロット自体が日本の価値観を反映している。「森の精」や「神隠し」といった要素は、自然の中で生き八百万の神を信仰してきた民族にとって馴染みやすいものだろう。

しかし最も強調したいのは、そのジブリ作品の「何か」を表出しているのは、はやり劇中での台詞、言葉であるということだ。

「我が名はアシタカ。東の果てよりこの地へ来た」

皆さんご存知、「もののけ姫」での有名な台詞である。日本語で同様の意味を表す文章がほかにも可能か、ぜひ検討してみてほしい。

これは何も難しいことではなくて、沢山の違った言い方ができるだろう。「我が」を「私の」にしてもいいし、「俺の」でも、「あっしの」でもいけそうだ。「名は」は「名前は」でもいいし、無くてもいい。こんな感じでパズルみたいに組み替えれば、相当なパターンが生まれるだろう。

しかしアシタカの凛とした自己表明を描くには、やはりあの文章がしっくりくる。

ちなみに英語版の字幕ではどうか。

My name is Ashitaka... I come from the east.

となる。

うーん、これで英語話者の人にオリジナルの雰囲気が伝わるだろうか、、。

中学生になると、よく「英文を訳せ」という問題に出くわす。(最近では小学校で英語の授業をやっているんですね!) 私はこの手の問題が嫌いだった。英文が暗号解読機にかけられたが如く、一意の日本語に定まってしまうのが可笑しくて仕方がなかった。一人称はいつも「私は」と訳され、文末は「~です」がお決まりだ。クラスメイトに自己紹介で「私の名前はメアリーです」!? 一体誰がそんな日本語を話すのか。もっと日常に即した訳文が評価されてしかるべきだと今でも思っている。

このアシタカの台詞の場合は逆に、日本語が英語になっているのだが、すこし不安である。私は英語ネイティブでもないので、英文が持つ雰囲気を完全に理解しているわけではないが、これでオリジナルの台詞の雰囲気が伝わるのか自信をもてない。

そもそも、日本語とは主語を省略する言語である。省略してナンボなのだ。主語の発話は、それだけで文の重みを増すことになる。アシタカは「我が」という連体詞と共に「名」という主語を言った。「名前」ではない。これは「我が」に続く語呂を調整するためだろう。「名前」なんて言ったら、音節のリズムが崩れて間抜けな感じになってしまう。

「アシタカ。」彼は言い切った。体言止めである。「アシタカだ」でも、「アシタカという」でもない。まして、「アシタカです」なんて間違っても言わない。言い切ってこそ、完璧なリズムが完成するのだ。

「我が名はアシタカ。」

この8音の一文の持つ心地よい、それでもって力強いリズムや、前半の一字の漢字の連続と体言止めによる凛とした雰囲気は、なかなか翻訳できるものではないだろう。もっと言えば、この8音に続く19音の一文も、セットで素晴らしいリズムを作っているのだ。

「もののけ姫」では、自然信仰の独特な文化に加えて、このような翻訳し難い台詞の数々が何とも言えない世界観を創っている。この世界観をじっくり味わえるのは、日本語を話す者の特権のようだ。

うん、日本語っていいよね。

と、終わりたいところだが、最近では日本人の心の音叉を鳴らすような日本語を話すことが苦手な人が増えているように思う。(自分もまたその一人だが。)


「私の名前はアシタカです」

頼むから、そんな文章作ってくれるなよぉ。

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今回は日本語の魅力、あるいは日本語で芸術作品を味わうことのできる魅力について書きました。「日本人の特権」という表現に特に含意はありません。国籍がどうであれ、母語がどうであれ、望めば誰だって日本語の持つ世界観に触れることができると思っていますし、世界中のどの言語にだって、その言語を話す人たちだけが享受できる「深み」があると思っています。他言語を卑下する意図はありません。

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