明治皇帝盛衰記:五,「日露戦争‐末」

 
血の日曜日 宮廷昏く閉ぢゐる夕を人夫らの血の服よこたはる

陸軍記念祭の青年ふるき地勢図へとガソリンを冬したたらす 

バルチック艦隊渡航老朽化せし艦橋へ二色旗かかげ

海峡へ靜かなる戰ひらき病院船の灯火ともりをり月夜

対馬沖海戦之図「晴朗ナレドモ浪高シ」砲撃開始

陣形はくづれながらも予測位置へ入りつつありぬ 雌雄決すは

旗艦三笠へ軍旗掲揚され全麾下に「皇國ノ興廃コノ一戰に在リ」と

戰禍ひろがりある沖へ火煙靡き損傷せり軍艦の指揮は

追撃・夜間戰へ沈没数多 散り散りてバルト艦隊掃射されき

海軍記念祭。驕れる青年の白亜軍服へと黴 皇軍へ仇なすは
  
  
ロシア第一次革命 皇統衰へゆく絞首臺へと千名の暗殺犯吊りて

ニューハンプシャー。円卓はさみ日露両國講和す 支配を巡り

日本國属州殖えゆきながら大陸満州鉄道會社創始す

日英同盟・日佛協約つかのまの戰勝に結ばれあらむ、國是も

日露協約。地図へと染みひろごりて吞まる半島、南満州割譲

「十万の生霊と二十億の國帑」に贖はれたる殖民州おそろし

休戰。皇帝陛下下賜したる勅語に廃兵とあり その四肢

日比谷焼打事件。民みづからを羞づるなきゆゑ憎しむ 加担せしは汝

報道機関紙「戰争の責任を問ふ」煽られてぬかるみへ落つ 貉なる 

野心ゆゑ膨れ上がりき領土にして蜜の河流るる土地にあらず
  
  
聖約翰教会 焼き亡ぼされてなほ憎悪の的ならむ格子戸の十字

十月詔書起草され皇帝ニコライ二世王室の亡びまでを時計は

大本営解散。壁に晒れ灼けあらむ八角時計へ落陽差すかな

大元帥服に肋骨状の飾り紐かすれ吊られをり喪章のごとく

富國強兵そのゆくすゑを兆しつつ殖民地 版図へと渡れ、民

帝國大學卒業式。顔色悪き皇帝は侍従伴ひ臨御す、椅子ゆ

1912年7月30日0時48分鬱血の色に菊の一輪落ちぬ

尿毒症 痙攣もよほす皇帝のしはぶきて睡りへ着きぬ 崩御図

追号 明治天皇在位四十五年の間遺しし火種とは

侵略には侵略を敵には敵をかくごとく継承されし皇統図譜に
  
          *
  
東京裁判ひらかるる間にもずぶぬれてたつ皇祖父肖像

皇帝は 臣、民、兵は英靈なりと告ぐ靖國神社へ呪はるるもの

誰が始めたる戰争なる 皇帝は咎され軍人は絞首臺

ふたたびの原子爆弾投下後に敗戦を呑み項垂るる今、天皇

三百万籍玉砕し雉鳩の啼く焼野に埋まりしままの鐘あらは 

玉砕を命じき。軍、臣、民を止めざりき。おほきみの負ふ罪

降服に帰るものなら 千万の軍見送りきわれは如何なるを負ふ

戦争の畢ぬ時死者総て葬り捨てきもののみ祝はるる夏へ雹

昨日へ忘草ちさき鐘さかしまにひらき核反応炉建ちをり 碑

天皇制降しき臣・民かならずや戦争はきみたちが起こす
 
 
 


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