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「夢の対決」というのは、「みんなが夢にまで見た待望の対戦」という意味ではなく、文字通り「夢の中でしかありえないナンセンス対決」という意味ですw。あしからず。

混迷を深める現代社会ですが、ひとりのラテンアメリカ文学ファンとして「もしアルゼンチンの作家ボルヘス先生が存命だったら現代をどう見ただろう?」という思考実験をしてみました。

昨日の以下の記事の続きともなっていますので、話題は「トランプ現象をどう見るか」となります。

昨日取り上げた本によると、「トランプ現象」の背景にあるのは以下のような発想でした。

選挙でもビジネスでも、意見の違う人たちを説得して仲間になってもらうより、意見が同じ人たちを束ねてガッツリと仲間にし続けておくほうが、コストもリスクも少ないし、確実である。現代のテクノロジーがそれをますます容易にしている。
よって、たとえば「熱心なキリスト教保守派」を仲間にし続けるためには、彼らが一番喜び、かつ、彼らの敵が一番怒ることをやるべきである。たとえばイスラエルの大使館移動などである。「何をすれば支持層が一番喜ぶか」を事前リサーチすることも現代テクノロジーがますます容易にしている。
問題はトランプ派だけではなく、反トランプ派を煽る民主党やメディアも、同じ手法をとっていることだ。「トランプに投票した人たちは無知で無教養な人たちですよね。私たち反トランプ派は彼らとは違いますよね」という、こちらはこちらで、アイデンティティの分断と対立を深めるメッセージを毎日流して、「反トランプの優等生お友達グループ」的な心地よさを作る戦略に出ている。現代テクノロジーがこうした動きをますます容易にしている。

アメリカに行くと、もはや人種の違いによる対立よりも、「トランプ派か反トランプ派か」「共和党派か民主党派か」「保守かリベラルか」による対立や相克のほうが社会をズタズタにしている印象だそうです。

ではどうすればよいのか?

上掲の『なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか』という本では、「政治家やメディアや知識人がおしつけてくる出来合いのアイデンティティを受動的に受け入れるのをやめて、アイデンティティにはたくさんの選択肢があることを大切にしよう。自分なりのアイデンティティを慎重に選択する自由意志を持ちましょう」というのが提案でした。

ただ、ボルヘス先生なら、この議論を聞いたら、おそらくもっと過激な方向に突き進むのではないか、と予測します。

ボルヘス先生ならば、「でもさ、そもそもアイデンティティに固執する『私』って、なんだ?そんなに大切なものか?」というエグいところに問いをおいてしまうでしょうから。

ボルヘス先生がしばしばしていた発言から抜き取ると、

・「私が読書好きなのは、いつも『できるだけ私とは違う人間になりたい』という願望を持っているからだ」
・「本を読むことは、『自分と違う人間の生き方を体験できる』という最高の贅沢を味わせてくれる」
・「私は、私が何者であるかには興味はありません。ただ、世の中の他の人たちにとっては、私の『ボルヘス』という名前は、『ボルヘスの著作を読みたいのですが』というように、私が書いた本を図書館で探すときに便利な記号ではあるでしょう。私自身には、あまり意味はありません」

ボルヘス先生が、もし、今生きていたら、どうしていたか。おそらく、インターネットを初めとするテクノロジーについては、歓迎してくれたのではないでしょうか?

ただしそれは、トランプ現象に見えるような扇動と分断の温床としてではなく、「より自分と違う時代や国の人の書いた情報をたくさん手に入れて、より自分のアイデンティティをどうでいいものにしていくため」にフル活用したのではないでしょうか?

ボルヘス先生自身はあまりにも政治に興味がなく、むしろペロン政権に弾圧されたり、それでいてピノチェト大統領とは仲良くして総スカンを喰らったりと、政治家相手の生き方は、たいへんに不器用でした。

ですが彼の持っていた「たくさんの本(情報)に触れることは、自分を強化していくためではなく、自分がこの世界の中ではあくまでもちっぽけなものにすぎないことを知り、できるだけ他人の目で世界を見る機会を得ていくためである」という発想は、現代のいろんな問題からの脱出口を探る、よい指針になるのではないでしょうか?






子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!