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私が「シン・レッド・ライン」を深読みしすぎて「これぞ史上最高の戦争映画」だと思っている理由

第二次世界大戦を描いた映画ながら、同時期にたまたまリリースされた『プライベートライアン』の陰に隠れてちゃって目立たないのが、テレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』。

しかし「目立たない」ことが、よいのかもしれない。

こういう映画は、見た人によって千差万別の印象が生まれてしまう。「戦争映画」というカテゴライズすら余計なものかも知れない。

似ている映画があるとすれば、実は『2001年宇宙の旅』だと思う。あの映画もあらすじだけを取り出せば、「閉鎖された宇宙船の中でのコンピュータの叛乱」ということになってしまうが、見た人はもっとレベルの違う部分に共鳴してしまうだろう。

「見終わったあとに、世界の見方が少し変わってしまう」。そんな映画が、たまにあるのだ。『2001年宇宙の旅』もそう。『シン・レッド・ライン』だって、そうである。

そしてそういう映画はえてして、「どこがどう感動したか」をコトバでは説明しにくいわけだ。そりゃそうだ。映像作品だもの。本来、映画の感想とはコトバでは説明不能である。本当の映画体験とはそういうものらしい

だがそれは百も承知で、あえてウンチクを垂れさせてもらうならば、私は『シン・レッド・ライン』を見て、ここに汎神論的な宇宙観の表現を感じ取った。オープニングで描かれる、「ヌルヌルとして残酷だが、やはり美しい」、そんなジャングルの自然描写が、ツカミとして実に強力。

そういえば、かの水木しげる先生も、ニューギニア戦線の最中、天国でもありかつ地獄でもあるような自然に放り出されたことで、「妖怪」の実在に覚醒したというようなことをよく話していましたよね。

ただしテレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』では、一神教VS多神教とか、西欧文明VS未開社会とか、物質文明VS精神性とか、そういうテーマを一見扱っているように見えて、実はそれらの「VS」を焼き尽くしてしまうような、なんかぶっ飛んだ一元論世界みたいなものが垣間見えるのが、凄まじいわけで

一神教でも多神教でも、どちらから入門しても結局は見えてくる高みというか、

西欧文明でも未開社会でも、どちらに生まれても最終的には到達可能(かもしれない)な高みというか。

そういう「視点」があり得ることを、なんだかどこかに「覗かせて」くれる作品として、『シン・レッド・ライン』は私の人生にとって強烈すぎるインパクトを与えてくれた映画なわけだ。

映画の構成としても、最終的にはなんだか臨死体験のような映像トリップまで、心を持っていかれてしまうわけだしね。

↑こんなのは深読みしすぎだって?そうかもしれない。けれども、観た人に深読みをとことん強いて、世界の見方を変えざるを得なくさせてしまうような強力な映画というものが、間違いなく存在するわけだ。私にとって『シン・レッド・ライン』はそれで、汎神論的な宇宙というものへの、かすかな希望を、私の心に灯してくれたものなのである。


子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!