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【もしドンキホーテを日本の時代劇に翻案したら?】若いうちに自主製作の資金があればやりたかったこと

このnoteの別の記事でも語っていくテーマですが、私はスペインの古典文学『ドンキホーテ』の熱狂的なファンです!

スペイン語を始めたきっかけも『ドンキホーテ』を原文で読みたかったから、です!

何がそんなに好きなのか説明するのが難しいのですが、世界中でこれだけ愛読されている小説を日本でももっと広めていくことは自分の使命のひとつと考えています。

とはいえ『ドンキホーテ』はとても長い作品である上に、現代人の感覚からすると展開のペースがとてもゆっくりで、慣れるまで読みにくいことは確か。

その問題を解決するために、若い頃にこんなことを考えたことがありました。↓

日本人でも面白い「ドンキホーテ」を作るために、時代劇映画に翻案しちまえば!?

私も若い頃はクリエイター志望で、多少お金を出してプロ向けの映画制作のワークショップなどにも参加していたことがあります。そこでかなりマジメに練った企画が、「和風デザインのドンキホーテ」でした。

とうに諦めたアイデアですが、昨日アップした記事「ブラジルで寄付だけで実写版ナウシカをコツコツ撮り続けている自主映画チーム」に感化されて、私も恥を捨てて「お金と自由と時間と若さがあったら、もしかしたらやっていたかもしれない夢の映画」の話として人目に触れるところに書いておこうと思います。

少なくとも、ドンキホーテというスペインの古典文学はどんな物語なのかを説明するひとつの方法として、「もし日本の時代劇だったらどんなふうになるかの思考実験」くらいの意味はあるでしょう。

練った企画の概要はこのような感じでした

【あらすじ】

時は江戸時代。

すでに戦国時代は終わり、戦乱というものはなくなり、「武士」というものは腰に刀を差しているものの事実上は戦士ではなく役人と化していた太平の世。

ところがある田舎の中年の地主が、前田利家や前田慶次やらの勇ましい「戦国のかぶき武者」の伝説に感化され、派手なかぶき流儀の槍と甲冑を小道具屋から買い込み、「いざ一国一城のあるじを目指して」、同じ村の百姓であるサンチョパンサ(日本名は工夫しないと、、、)を従者に旅に出た。

「いずれ戦に参加して手柄を立て、武者として認められれば、一国一城の主も夢ではないのだぞ、サンチョ・パンサよ」

「へえ、そんなもんですかい。そいじゃ、はやいとこ、そのイクサってやつに参加しやしょうや。イクサはどこでやっているんですかねえ?」

そんなとことん噛み合わない漫才道中を続ける二人。当然、戦などどこにもあるはずもないのだが、町のヤクザが弱いものいじめをしているところに「この悪者め!武士として見過ごすわけにはいかん」と無謀に突っ込んでいき、ボコボコにされつつも結果としては弱い者を助けることに成功したりして、いつしか庶民の人気者として評判になっていく。

やがては、彼らの道中を小説にして売っているものを町の書店で見つけ、「誰じゃ、わしらのことをこんなふうに書いている小説家は?会ってとっちめてやるわい!」と、物語はメタ発言が吹き荒れる「作者探しの旅」「自分たちが小説の中に描かれていると意識している主人公」の冒険という、哲学的にもユニークな摩訶不思議展開になっていく。

ぜひとも鈴木清順スタイルで映像化してみたかった

上述した「あらすじ」、いかがでしたか?

ドンキホーテというスペインの小説が「時代錯誤ながらも愛すべき騎士のコメディ」ということは知っていても、後半がアバンギャルドな「現実とフィクションの交差」「夢とマコトとの境界崩壊」展開だとは、知らない人が多いのではないでしょうか?

もし私がドンキホーテを映像化するなら、この後半の「夢と現実のカオス」展開のほうをむしろ前面に出してやりたく、作風としては鈴木清順監督のような極彩色のアート系でやりたかった。

こんなことを言っているうちに、構想ばかりが自主制作不可能なほどに巨大化し、実際には何も作らずにオクラ入りとしたのですが、「ドンキホーテを和風の時代劇にしたらこんな感じになる」というアイデアは、いまだに他人にこの作品の説明をするときには便利なので、使っています。

このnoteでも、私は今後、ドンキホーテに関する記事をたびたび扱う予定なので、その導入として、私の「和風ドンキホーテの夢」について語らせていただきました!

子供の時の私を夜な夜な悩ませてくれた、、、しかし、今は大事な「自分の精神世界の仲間達」となった、夢日記の登場キャラクター達と一緒に、日々、文章の腕、イラストの腕を磨いていきます!ちょっと特異な気質を持ってるらしい私の人生経験が、誰かの人生の励みや参考になれば嬉しいです!