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これまでの10年、これからの10年

ふと目にした時計の時刻が14:46だった時。
誰を思うわけでもなく、心の中で静かに祈ることがこの10年で私の中の約束事のようになっていた。

今でこそ宮城県に住んでいるけど当時は都内暮らし。ボランティアで東松島や石巻に数回訪れただけで何かの力になれた実感もなく、私が震災について語るのはおこがましいと思っている。ただ、東日本大震災と福島原発の事故をきっかけに、自分自身変わったなと思うことがある。
今回は、この10年で積み重ねた、私の中の小さな意識の変化について書いてみようと思う。
30代の棚卸しのような気持ちで。

①世の中で当たり前だと思われている事を疑うようになった

1番の変化は、世の中で当たり前だと言われている事・思われている事をいちいち疑ってかかるようになったこと。そうすることでこれまで見えていなかった世界が広がった。

震災の渦中での政府や東電の対応、マスメディアの報道に大いに疑問を覚えたのを機に、世の中には、既得損益のために成り立っている事・物がたくさんあることを知った。そして、効率や利便性の裏で犠牲になっている人や自然があることも。

ある事が当たり前、と言うか関心を持ったことすらなく、それが私にとって・家族にとって・街にとって・国にとって必要かなんて、考えたこともなかった。自分の無知を恥じた。

以来、目に見えない制度や仕組みについても(例えば子どもの予防接種とか)、スーパーで手に取る食料品ひとつについても、仕事柄建築建材についても、気になる事があれば成り立ちや成分などを調べて、いちいち「私はこれを良しとするか?」と問いかけて、良し悪しを判断するようになった。

この一連の自分とのやりとりが習慣づくまでは、買い物にまぁ時間がかかる。(苦笑)
「なんて面倒くさい人になったんだわたしは。」と自分にうんざりすることもあった。
人とは違う選択をする事にしんどい時もあった。
でも気になっちゃったら、無視はできない。(自分の声を無視し続けて、心身を壊してしまった事があるから。)

それでも続けていくうちに、自分にとって心地よい物・事が徐々に分かるようになってきた。
添加物は絶対NGみたいな明確な基準を設けるよりも、曖昧だけどこの"心地よい"というのが大事だと思っていて。
あまりストイックに選別しすぎるとコミュニケーションを難しくさせてしまう事があるので、ジャンクフードだって食べるし、その時その場にいる皆んなが心地よいことを優先している。

そう思うに至った忘れられない出来事が一つ。

子連れで集まってミーティングをしていた時。
子どもたちが退屈そうだったので、息子が持っていた市販のお菓子を知人の子にもあげようと確認したところ、知人の顔が一瞬曇ったのを私は見逃さなかった。そして、断られた。
その知人は私以上にこだわりがありそうだなと以前から思ってはいたんだけど、良かれと思ってやった事が拒絶されたことに私は少なからずショックを受けた。

この時、自分の正しさを通しすぎることで関係性に溝を生んでしまうこともあると学んだ。
そして、添加物の入っているお菓子だろうとみんなが笑って食べてくれるなら、私はそっちを大事にしたいと思ったのだった。

基準は曖昧だけど、知っていて選ぶのか、何も知らないで選んでしまっているのかでは、雲泥の差があると思っている。

②バトンをつなぐ意識を持つようになった

二つ目の変化は、バトンをつなぐ意識を持つようになったこと。
そして不思議なもので、他者にバトンを渡すことを意識したら、自分とつながる感覚を持てるようになった。(冒頭の画像で、ミーも言ってますね)

20代の頃は、セミナーやワークショップに参加する時は、いかに自分の糧になるかだけを考えていた。(若いし経験が少ないので、それはそれで大事なことだとは思う。)店舗のプランニングやデザインという周期の早い仕事をしていたこともあり、インプットしたらすぐアウトプット、デザインソースが足りなくなったらすぐ次、次、インプット・アウトプット、インプット・アウトプット。常に自転車をこいで汗をかいて表面的には暑いんだけど、自分の深いところは温まっていないような感じ、だったのかなぁと今になって思う。

30代の今は、何かに参加するときは、自分の深いところが喜ぶかどうか、みたいな感覚が一つの判断基準になっている。そして、得た知恵や知識はちかしい感覚を持つ友達とシェアして私ひとりが成長するのではなく、まわりと共感したり分かち合いながら深めていきたい、と思っている。母になってからは特に、子どもたち(自分の子どもに限らず広い意味での)のために何を残せるか、という問いをいつも胸に持っている。

そんな心持ちでいた私にとって、逗子の保育園『ごかんのもり』で開催されたワークショップ「未来につなぐ暮らしのたね」での経験が、大きな大きな財産になっている。2017年のこと。

この『ごかんのもり』の中心にはパーマカルチャーの考えに基づいてデザインされた畑があり、園児たちが育てた野菜や果物は毎日の給食に使われて、皮や食べ残しなどは手作りのコンポストで堆肥として生まれ変わり、畑の土に還される。この自然の循環の中で園児たちは生活している。

WS「未来につなぐ暮らしのたね」はタイトルの通り、後世に残していきたい暮らしの知恵〜身体と暦のつながり、コンポストの作り方、食べられる野草の見分け方、NVC(非暴力コミュニケーション)、アート・表現することの楽しさ、などたくさんの学びと気づきをもらった。
なかでも一番は、自分とつながることを教わった気がする。

WSの最後の回はゲスト講師を招くのではなく、参加者自身が表現する発表の場が設けられた。

仕事でプレゼンする機会もあるので発表自体に抵抗はないし、これからやっていきたいことの構想もある。ビジョンみたいなものを発表しようかな、と思っていた。
けれど、表現、と言われるとなんか違う気がする。
原稿まで書いたけれどどうもしっくりこなくて、何が今の私にしっくりくるのか、悩んで悩んで、ここでこの違和感から目を背けてはいけない気がして、発表前夜に一度自分を空っぽにするハメになった。

すると。店舗デザインができたり、臨床美術をやっていたり、スキルは色々あるんだけど「自分の表現がない」という決定的なことに気がついた。そのことを認めたら、波も風も立たない凪の時間のように、心が静かになった。

自分の表現がない私は、人に伝えるに値する何があるのか。出来ることではなく、私のあり方。DOではなくBeを改めて考えた。
そうして、私は昔から、出会っていいなと思った言葉をたくさんストックしていることに気がついた。自分では紡げないけれど、私が大事にしてきた言葉をみんなにおすそ分けするのはどうだろう。
ポエトリーリーディング。
なんだかしっくりきた。やったことはないけれど。
選んだのは茨城のり子さんの「自分の感受性くらい」、そして永井宏さんの「ほんとうにたくさんのロマンティックなこと」。

(本当はもう一つ、歌手UAのライブで聞いた「行動を遅らせる言葉を使うのは辞めよう」という詩もとても素敵だったんだけど、全文が分からなかったので発表できなかった。UA自身の詩だったのかな?)

ふたつの詩、自信を持って発表できた。
清々しかった。
自分とつながれた、自分を肯定できた心地よさ、だったのかな。
それ以来、何かに迷ったりすると、「私は私に正直?」と問いかけながら、あの時の心持ちに還るようにしている。

「循環を生めるようになると、自分もまわりも豊かになるんです」
会の最後、園長のトモさんが言っていた言葉。
以来私の"言葉ストック"最上位にあって、なにか新しいことを始めようと思ったり構想を練ったりする時に必ず顔を出す。

③言葉が上滑りしなくなった

そして三つ目。
言葉が上滑りしなくなった。
これは宮城に移り住んでからのこの数年で感じている事。

①で自分とのめんどくさい対話を経て、②で自分とつながれた感覚を知った私は、自分にとってしっくりくる言葉を選べるようになった。
自己一致感とでも言うか。
だから、このnoteも書けている。

都心部で暮らしていた頃は、刺激や影響を受ける対象が私にとっては多すぎて、文章もデザインも何をアウトプットするにも誰かの受け売りになってしまうんではないか、思われてしまうんではないか、という恐れをいつも抱いていた気がする。
20代の頃から、文章で発信したい欲みたいなのがずーっとあったんだけど、なんとなく踏み出せずにいた。

田舎に移り住んでから、刺激は、減った。良くも悪くも(笑)
いや、正確には過度な刺激が無くなっただけ。
地に足をつけて、自分のできる事を全うしている人がたくさんいて、おおいに刺激はもらっている。

私も、自分のできる事をしよう、できない事はできない、とシンプルに思えたからか、言葉を発すること・書いて発信する事が億劫ではなくなった。
ようやくスタートラインに立てたような気持ち。

これからの10年

これが、30代の私が感じた自分自身の変化。今年40になる。不惑、だ。
これまで移り気だった私が惑わずにいけるだろうか?
ようやく自分とつながれた感があるから、これから大きくブレることは無い気がする。

でも今の私はまだ、自分のやりたい事を形にして、軌道にのせることで精一杯。
これから少しずつ、この地になにかの形で還元していきたい。
そして、次の10年の目標は、循環を生むことだなと思っている。

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