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必要なのは「世界から適切な距離」をとる技術

世の中のニュースもタイムラインも鳴り止まない仕事の通知も。仕事と暮らしの垣根がない混ぜになった今「世界から適切な距離をとる技術」というのが、とてつもなく大切なものとなった。

たいしたTIPSがあるわけではない。しかし、必要に迫られた技術だなと思う。スマホやタブレットからSNSアプリを消し、必要最低限のツールのみ通知を許可する。それで一定の距離は確保できたが何より人の心の訓練にはこの短期間では足りなかったように思う。

1日に無数の打ち合わせを超え、いくつかの未解決な課題を抱きかかえたまま一人家路を辿る時、ふと孤独な状態になる。その瞬間がふわっと心が軽くなる不思議。SNSは孤独を限りなく消していき孤独の代わりにそれっぽい繋がりを紐付けた。承認欲求という薬で持って数年はそれが必要不可欠だという幻想を与えたがコロナ渦の中でプラシーボ効果的なものは切れたように思う。

必要な孤独と不必要な孤独

孤独/aloneの語源は「all+one」だという。全ての人はそもそも一人なのである。一人であること=孤独と解釈するのは間違っている。必要な孤独と不必要な孤独とがあるはずだ。僕らはあまりに「必要な孤独」を別のもので代替しすぎたのだと思う。外界から遮断され自分一人で思考する時間。それは豊かな孤独である。その時間の中で自身を見つめ、少し先の未来に期待を抱く。

このような時間が失われることで起きた弊害は、自分自身との対話が減り、そもそも自分が何をしたいのか、もしくはしたくないのかを判断できなくなる状態やほんの少し先の未来にさえ悲観的な感情しか持てなくなるマインドセットかもしれない。確かに多忙で死にそうな時は、この状態に陥る。

旅先には必要な孤独の環境が整っている。移動する車内もそうだ。だから旅はいい。自分自身を見つめ直す、自分自身と対話する時間が約束されているからだ。僕の師匠が「クリエイティビティは移動距離に比例する」と言っていた。それはまさに自己との対話量のことなのだと思う。

計画的なシャットダウンと距離設定が必要

このような世界において、自身の工夫と努力で持って「世界との適切な距離」を取る必要がある。その一つが上述したSNSの扱いであり、僕の場合は「完全なる外界とのシャットダウン」だ。19時には確実に仕事をクローズする。よほど緊急のことがない限り、様々な通知は見ないし、そもそも通知されない。電話も同様で僕にはかからない。よほど緊急で一定時間に何度かのコールが発生するという条件を突破しない限り、通じない。

今、僕にとって世界は毒素が多すぎる。
それでも日中は世界と対峙するのでダメージもある。本当に好きなように生きるのであれば電話もすて、地元にでも帰るだろう。別に世界が悪だとは思っていない。でも、今全体の空気が個人の領域まで侵食してくるほどの影響力があると思っている。

自分らしい適切な距離を意識しよう

僕は自分らしく健全で生きていくために世界と適切な距離を取る。
たった数ヶ月前には感じていなかった感情でもある。仕事と暮らしが半ば強制的に混ぜ合わされた結果、一瞬世界との距離が以上に近く感じてしまい、眩暈がするほど視界が揺れた。ATフィールドのようにいくつかの防御線を引くことでギリギリ自分自身を守っている感覚が今はある。

おそらく人それぞれ、この線引きはあるのだと思う。
しかし、この距離の取り方を蔑ろにするといずれそれは自分の心を腐らせていくことになり、本当はキラキラした世界が澱んだ色眼鏡で退屈なものと捉えてしまいそうだ。もう少しこの世界にワクワクしていたい僕は今必死に世界との距離を取ろうとしている。

どれくらい距離をとるべきか、近づくべきか・離れるべきか。
そういった物事を一人で考える時間すら今の時代少なくなっている。
意識して向きあわないと無防備では僕らは世界に喰われてしまうのではないかと心配でしかたがない。

スマホを置いて散歩にでよう。朝でも、夜でも、ランチタイムでも。
誰もいない公園や川縁や屋上で一人自分と向き合ってみよう。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。