都会は生きやすいが故に「生きる/暮らし」の思考が鈍化する
暮らしを見つめると生きる背中が見えて来る。
その背中をいくつも眺めると、その町が見えて来る。
その町の向こうにうっすらと未来が見えて来る。
RADと共に丹後にリサーチ入りしている。
うっすらと感じていた丹後の可能性をもう少し解像度高く、広域に調査している。リサーチのためのリサーチまでしたくらいだ。
RADは聴き込みをし、僕らは周辺の風景をぶらぶらと散策する。
RADが人から丹後見ようとする背中で山々の暮らしのある風景を眺める。
水が流れて、海が蠢き、霧が立ち込め、森が佇んでいる。
ここに暮らす人たちが見ている風景だ。
都会と田舎の優劣はないと感じた。
都会は田舎の暮らしに憧れることもあるし、
田舎は都会の暮らしに憧れることもある。
経済でいえば僕らが住む街は都会かもしれない。
でも暮らしでいえば僕らのそれはなんとも不安定で宙に浮いたもののように見える。都会が進んでいて、田舎が停滞していると言い切るなら、暮らしの上で僕らは停滞している。都会は生きていく視点で見ると停滞しているようにみえた。
なぜかというと丹後で出会う人たちは、生きることを考えている。
自分の頭で考え行動している。移住者も生まれてからずっとこの風景を見ている人も。僕の生きるより、力強い生きるが目の前にあった。どれだけ自分は無思考な価値観で日々を暮らしているのか。
都会は「生きやすい」。
このイージーモードは、生きるを思考し実践することを著しく鈍化させる。
ワークライフバランスとかじゃない。職住は本来一体だったのだ。
そういうことに気付かされる。いかに自分が鈍化しているのか差分でわかる。
このリサーチはあと2日続く。合計で10人以上の暮らしから丹後を紐解く作業だ。
RADの聴き込みと並走して、ぬえさんはいつものシャーマンチックなアンテナで丹後を言語化してみる。
丹後が面白くなるヒントを探しにきてるのに、
不思議と僕にフィードバックがある。
雨の音が聞こえる。虫が泣いている。真っ暗な夜がある。
思考が真夜中に広がっていく。
いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。