新年早々、マイノリティ。
昨年の年明け、私は人生で初めて「あけおめ」を言えない年始を迎えた。
理由はこれ。
テレビをつけると、どんなにまじめで複雑なコンテンツを扱う番組だろうが最初のご挨拶は晴れやかな「あけおめ」である。
まあしょうがない。私の頭は、芸能人と私、アナウンサーと私、取材されてる一般人と私の区別くらいでは”「あけおめ」の言えないマイノリティ”だろうが全くといっていいほど気にしない。
問題は、学校やバイト先。
友達、先輩、後輩、先生、上司・・・。
人付き合いの少ない私でも、「あけおめ」と話しかけてくれる人はありがたいことに多い。
私はどう返していいものかわからず、「あっ、あけおめ~」と小さめの声で言った後すぐに「ことよろ」を少し張って発声する、ということを繰り返し実践した。
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もう1年以上祖母と会っていないなんて、信じられない。
ときどき嫌なことを考えて眠れないときに、代わりにもっと悲しいお葬式の日を思い出してしまって泣きながら寝ることもある。
ほんの小さなミスや悪口でも気にして何年も覚えているような私だから、きっとこれからも、年末年始をこういう気持ちで過ごしてしまう。1年経ったからって、すぐに何かが変わるわけではないから。
そういえば、小さい頃、こんなに幸せでいいのだろうかと思ったことがあった。神様がずっと微笑んで、見守ってくれているような心地。
ドラマの中で見るような、大切な人との突然の別れなんてものが私に降りかかるときが来るのだろうか。いや、来ない。もっと私が大人になって、そういうことが起こってもなんともないと言えるときになってから、神様はそっぽを向くはず。
でも、そうじゃなかった。
やっと少し自分に自信が持てる出来事が起こって、これからだと思って手紙を贈ったら1か月後には亡くなってしまった。
私は、今まで幸せを感じて生きてきて、「辛さを経験していないから甘い」とか、「もっと大人になれば周りの人(マジョリティ)みたいになれる」と思っていた部分があった。
でも人はいつの間にか欠けている。いや、元々欠けていた場所に、ずっしりと重い悲しみがうまくおさまってくれるわけもないのだ。
私は何を求めていたのかわからなくなった。
今、1年経って思うのは、確かに人の死は人を変え得るし、一度それを経験すると人はマジョリティもマイノリティもなくただその人を愛していたんだと気づくということ。
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遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。
2022年は、まだ完全なる晴れやかさはないものの、少しずつ心を回復させながら、ぼちぼち生きております。
HARUへ。私が書き続ける原動力になってくれてありがとう。
私は今ある幸せの記憶とともに、これからも楽しくいきます。
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