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表現とその受け取りかた

お久しぶりです。sazeのazsaです。

アートとかあんまりわからないタイプの人間なんだけど(いろいろ作ってるくせに)、森美術館で開催されていた「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」を観に行ってきました。

今回見にいった展示は予備知識とかはほぼ無くて、ちょっと時間あるしなんか有意義に過ごせることないかな~と思って、東京の美術館をまとめてるサイトみたいなところで今やってる展示をザっと見て、たまたま見つけて興味を惹かれたので行ってみたんだけど、、

あまりにも刺激的だったというか?
感情とか、脳みそが揺さぶられて数日経った今もずっと頭から離れないので、ちょっと記録に残しておこうかなと思います。

入口入ってすぐのところに展示されていた「ビルバーガー」


先にも書いた通り、私はあんまりアートの見方とかわからなくて(ふんわりと好みか好みじゃないかとかはあるけど)と作品自体に何かを感じた経験があんまりない。(と思う)

今回も作品自体を見ただけでは、正直よくわからなかったと思う。
でも、それぞれにキャプションがあってしっかりと説明されていたことと、テーマが自分にとって身近なものだったので、食い入るように見てしまった。

ピンクチラシのように書いてある番号に電話する(性欲)とチカチカ光る(電力変換)装置

とにかくボリュームがすごくて、ひとつひとつの作品から感じるエネルギーと圧がすごくて、息苦しくて、何回も深呼吸したし、気分が悪くなりそうで見ていられないものもあった。

二十歳前後の頃、社会に当たり前としてあることに対しての生き苦しさとか、そういうものに反発して自分を表現することで感じる快楽とか、自分が最強で感情が剥きだしだった頃の気持ちが記憶として蘇って、感情が揺さぶられた。

展示してた作品の内容とかテーマとかは公式サイト(?)でみられるので、そっちをみてみてください。

作品についての批評とかではなく、見て私が感じたこと、感じたモヤモヤっとした感情の内訳なので、純粋な感想とはまた少し違うのかもしれないけど。


SNSとかで良くも悪くも前ならえ!みたいな現状にモヤモヤしているくせに、自分も気づけば前ならえしていて、自分で感じることをそのうち忘れていってしまいそうになってた。

周りに悪く思われるのが怖くなってて、言いたいことがいえなくて、でもそれを我慢できることが大人になることだと思ってたけど、私がしていたのは我慢じゃなくて、当たり障りなく生きること、人が発信しているものの上澄みをなんとなくなぞってわかった気になって、感じない・考えない方が楽だからそういうものから目を背けることだったかもしれない。
うまくかわしたり、受け流しているように見せて、距離を置き、目を背けていただけだったかもしれない。

自分の感情を精一杯感じることはとってもしんどいけど、そういうものに向き合わず、向き合っているつもりになっているから自分を見失うのかもしれない。

感じることや思想を解放して放出すること(撒き散らすわけではなく)って、とっても苦しいし、時には批判も生むけど、ある意味健全だなと思った。


最近よく聞く「自分を大事にする」とか、わかるようでいまいちどうすればいいのかピンときてなかったけど、自分の声を聴くことって、多分、私にとっては、ただゆっくりと時間を過ごして心穏やかに丁寧な暮らしをすることじゃなくて、言葉にしがたい衝動や感情を見過ごさず、うやむやにしないできちんと向き合って昇華していくことなのかもなと思った。

思ったからといって、それができるかはまた別だけど。
やっぱしんどい感情からは目を背けたいもんね。

なんか、なんとなくわかった気になるのは意識的にやめたい。

「国立台湾美術館の「アジアン・アート・ビエンナーレ 2017」で展開した、美術館 内から前庭に延び、公道へとつながる 1 本の長い舗装道を作るプロジェクト」



展示を見にいく前、東京の街に所狭しとビルが立ち並ぶ中でそこらじゅうに植えられている街路樹(名古屋と比べると明らかに多い気がする)、整った商業施設や綺麗に整備された広い道を一本中に入ったところの同じ街とは思えない雑然とした空気感や路上の汚さなどを電車の中から眺めていて、私がずっと東京に感じていた違和感はこれだったのかもしれないと思った。

煌びやかでまぶしい部分と”裏”の部分が本当にすぐ隣にそれぞれ成り立ってて、自分にとって非日常なことが日常で同じ場所で起きているのに、でも全然別世界にいるみたいなそういう違和感、なんでもできる可能性のある街でも一歩踏み外すと地の底まで落っこちてしまうみたいな2面性の凝縮、それが私が東京に持ってるイメージ。

「違和感」って書いたけど、文化的に思えて嫌いじゃない。

今まであんまり考えたことなかった。

低い天井で薄暗く、隙間から差し込む光と乱雑に展示された作品たちが地下を思わせる作りになってるみたい
階段を上がると明るくアスファルトの開けた広場(道)になってた
写真はないけど、私が行った時は刺青を掘ってる人やタロット占いをしてる人がいた。
「今現在、道はただのアスファルトの塊です。本当の意味で自由な道にするためには、道を育てないといけません。道を育てる。」


それは今回の展示にもあった「道」で、表と裏の顔(フロアを上下でくぎって階段やマンホールで繋ぎ、地上と地下で表現されていた)みたいな構成を見て、なんとなく思った。

展示されていた作品たちは、作品そのものに意味があるというよりか、作られるプロセスに意味があるものが多く、そういうところに生の感覚があって、自分が作品の中にいるような展示方法や、「道を育てる」って意味を見た人が体験できるようになっていたように思った。
自分がその場居合わせたような空気感や匂いを感じさせるような生々しさもあって、自分が見ないように気づかないようにしてきた感情とか記憶を掘り返されて脳みそを舐められるみたいな気持ち悪さがあった。

それ故にきっといろんな捉え方をする人がいるんだろうなという内容だったし、それもまた意図されているのかなと思って、すごいパワーでメッセージを押し付けられるのに最後に放り出されるみたいな感じで、見た後にいろんなことを考えざるを得なかった。

広島で保管に困っている千羽鶴を集めて山盛りに。
折り鶴を開いて、その場でまた鶴に折り直して祈りだけ積み重ねるみたいな発想がすごく印象的だった。

ヒロシマのことも、3.11のことも、ウクライナのことも、どこかで他人事のように感じてしまっているのに、それをあたかも思いを馳せているようにそれっぽいことを言うのも、そういうことを言ってる人を見るのも結構いやで(それこそセレブのチャリティみたいに思ってた)ずっと触れないようにしてきたけど、今回の展示を見て今までになく身近に感じられたのは、きっと作品にリアリティがあった(少なくとも私はそう思えた)からなのかもしれない。


アートって何なのか、見方も作品もよくわからなくて、触れないようにしてた部分もあったけど、なんか別に自分が感じたように見ればいいのかなって思った。

いろんな批判があったように(あとから調べて色々知った)作者のエゴでしかないかもしれないけど、それでも何かしら人に伝わることもある。
理解しがたい・・・みたいな気持ちもゼロではなかったけど、商業的な個人の発信とか、ヘイトにビビッて表現したいことをオブラートに包んだりとか、コンプラとかポリコレとかもそう、回りくどいものばっかり見て飽き飽きしていた自分もいたから、ストレートな展示でわりと気持ち良さはあった。
(気持ち悪いって言ったばっかりだけど)

そして、プロセスが作品であり、それを見せて発生するいろんな考え方、一緒に作っていくことで消費させない作品になり、(これも後から知ったけどTikTokで話題になってたみたいで写真撮りにきてるみたいな人たちもいたけど)消費されてほしくないなと思った。

そういういろんなことを含めて、「表現すること、その受け取り方」について私なりにたくさん考えられたので、行けてよかったな。

やっぱりインターネット上だけでは伝わりきらないものって絶対にある。


なんかめっちゃまとまりないけど、とりあえずこれでおしまい!


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