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【読書録】『方法序説』デカルト

今日ご紹介する本は、世界的に有名なフランスの哲学者ルネ・デカルトによる名著『方法序説』(岩波文庫)。

デカルトは、それまでの時代の信仰に基づく真理の探求ではなく、理性による真理の探究を唱えたことから、近代哲学の父と呼ばれている。本書で述べられている「われ思う、ゆえにわれあり」(コギト・エルゴ・スム)という言葉はあまりにも有名だ。

デカルトは、哲学者であったのみならず、数学者、物理学者でもあり、稀代の天才であった。そのデカルトが41歳であった1637年に出版された本書『方法序説』は、全体で500ページを超える「屈折光学」「気象学」「幾何学」の3つの科学論文集の冒頭に付された、78ページの短い序文であった。私の持っている岩波文庫の文庫本(2017年第33刷、谷川多佳子訳)も、注釈や解説を含めて全137ページしかない。

昔、学生時代に読んだことのあった本書を、改めて読んでみた。以下は備忘録。

第1部

良識は誰もに備わっている、というくだり。

良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。というのも、だれも良識なら十分身に具わっていると思っているので、他のことは何でも気難しい人たちでさえ、良識については、自分がいま持っている以上を望まないのが普通だからだ。この点でみんなが思い違いをしているとは思えない。むしろそれが立証しているのは、正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識とか理性とか呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に具わっていることだ。

p8

旅をすることによって、理性を曇らせる前例と習慣に惑わされてはならないことに気づいたというくだり。

(・・・)そこ(※サザヱ注:旅をすること)からわたしが引き出した最大の利点は次のことだ。われわれにはきわめて突飛でこっけいに見えても、それでもほかの国々のおおぜいの人に共通に受け入れられ是認されている多くのことがあるのを見て、ただ前例と習慣だけで納得してきたことを、あまり堅く信じてはいけないと学んだことだ。こうしてわたしは、われわれの自然〔生まれながら〕の光をさえぎり、理にしたがう力を弱めるおそれのある、たくさんの誤りからだんだんに解放されたのである。しかし、このように数年を費やして、世界という書物のなかで研究し、いくらかの経験を得ようと努めた後、ある日、わたし自身のうちでも研究し、とるべき道を選ぶために自分の精神の全力を傾けようと決心した。このことは、自分の国、自分の書物から一度も離れなかった場合にくらべて、はるかにうまく果たせたと思われる。

p18-19

第2部

真理を発見するための4つの規則について述べた有名なくだり。訳者である谷川氏の解説では、「明証、分析、総合、枚挙」と表現されている。

 第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだ。言い換えれば、注意深く速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断に含めないこと。
 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
 第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
 そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。

p28-29

第3部

理性による判断がつかない間であっても、幸福に生きられるような暫定的な道徳として3つの格率を定めた、というくだり。

 第一の格率は、わたしの国の法律と慣習に従うことだった。

p34

 わたしの第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。

p36

 わたしの第三の格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに務めることだった。そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだった。したがって、われわれの外にあるものについては、最善を尽くしたのち成功しないものはすべて、われわれにとっては絶対的に不可能ということになる。そして、わたしの手に入らないものを未来にいっさい望まず、そうして自分を満足させるにはこの格率だけで十分だと思えた。

p37-38

第4部

有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という原理に到達したくだり。

(・・・)次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえに、わたしは存在する〔ワレおもウ、故にワレリ〕」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。

p46

それに続いて、神の存在を証明するくだり。

 続いてわたしは、わたしが疑っていること、したがってわたしの存在はまったく完全ではないこと(中略)に反省を加え、自分よりも完全である何かを考えることをわたしはいったいどこから学んだのかを探求しようと思った。そしてそれは、現実にわたしより完全なある本性から学んだにちがいない、と明証的に知った。(中略)そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった。その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに備えている、つまり一言でいえば神である本性だ。

p48-49

第5部

公表を控えていた論文の内容について触れている。心臓の運動について詳述し、最後には、人間の魂が、動物の魂と異なり、不滅であるとも論じている。

(・・・)動物の魂とわれわれの魂がどれほど異なっているかを知ると、われわれの魂が身体にまったく依存しない本性であること、したがって身体とともに死すべきものではないことを証明する諸理由がずっとよく理解される。そして魂を滅ぼすほかの原因も見当たらないだけに、われわれはそのことから自然に、魂は不死であると判断するようになるのである。

p79

第6部

本書の公表の経緯が縷々述べられている。ガリレオ・ガリレイの地動説の否認により、本書の公表を躊躇し、一時は生前の出版を断念したものの、その後、悪評や非難を避けたいと考え、題材を慎重に選んだうえで公表したという。

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哲学書であり、古典である。難解である上、回りくどい箇所も多く、どうしても理解できず、未消化に終わってしまったくだりも多い。

しかし、ページ数が少なく、第1部から第6部に分かれているので、毎日少しずつ読み進め、何とか読了することができた。

また、谷川氏の和訳と解説がわかりやすかったため、大いに助けになった。

まだ神や教会が絶対視されていた時代に、全てを疑い、理性によって真理を探究すべきことを唱えたこと。あらゆる学問の諸問題に対応するための4つの規則を導き出したこと。「われ思う、ゆえにわれあり」という哲学の第一原理に到達したこと。これらは、大変に画期的なことであっただろうし、その後のあらゆる学問の在り方に重要な影響を及ぼしたであろう。

そんな17世紀の名著を、薄い文庫本で、そして分かりやすい日本語訳で手軽に読めるということは、幸せなことだと思った。

ご参考になれば幸いです!

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