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【読書録】『幸福論』バートランド・ラッセル

今日ご紹介する本は、バートランド・ラッセルによる名著『幸福論』(冒頭の写真左側の岩波文庫版、安藤貞雄訳)。原題は、『The Conquest of Happiness』。1930年、ラッセルが58歳の時の著作だ。

ラッセルは、イギリスの哲学者、論理学者、数学者であり、ノーベル賞文学賞受賞者でもあり、さらに、核廃絶を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」で知られる平和活動家でもある。

本書は、世界的な名著であり、三大幸福論のひとつといわれている(他の2つは、ヒルティの『幸福論』と、アランの『幸福論』)。

なお、本書は、2017年に、名著を解説するテレビ番組であるNHKの「100分de名著」でも紹介された。その際の講師である小川仁志氏による、本書の解説本が、NHKブックスから出ている(『NHK「100分de名著」ブックス バートランド・ラッセル 幸福論』副題は『 競争、疲れ、ねたみから解き放たれるために』、写真右側の本)。こちらも、岩波文庫を読んだ後に、答え合わせ的に読んでみた。大変分かりやすく、理解の助けになった。

このラッセルの『幸福論』には、共感できたところが大変多くあった。私は、本を読む際には、印象に残ったところに付箋を貼りながら読むのだが、この本は、最初から最後まで、付箋だらけになってしまった。

そのため、長くなってしまうが、以下、特に強く心に残った箇所を引用して、備忘録としたい。その後に、私の感想もまとめておく。

第1部 不幸の原因

第1章 何が人々を不幸にするのか

幸福は、個人の力で獲得できるという、ポジティブな導入になっている。

私の目的は、普通の日常的な不幸に対して、一つの治療法を提案することにある。(中略)不幸は、大部分、まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣によるもの。そのために、幸福のすべてがかかっている、実現可能な事柄に対する自然な熱意と欲望が打ちくだかれてしまう。こういうことは個人の力で何とかなる。そこで、人並みの幸運さえあれば、個人の幸福がかち得られるような改革を示唆したい。

p14-15要約

続いて、ラッセル自身のくだり。幸福に生まれついてはいなかったが、今では生をエンジョイしている。その理由として以下のことを挙げる。

●自分がいちばん望んでいるものが何であるかを発見して、徐々にこれらのものを数多く獲得した。
●望んでいるもののいくつかを、本質的に獲得不可能なものとして上手に捨ててしまった。
●大部分は、自分自身にだんだんとらわれなくなったこと。自分自身と自分の欠点に無関心になることを学び、だんだん注意を外界の事物に集中するようになった。

p15-16要約

不幸の原因として、自己没頭があり、外的な訓練が必要であると展開する。

どっぷり自己に没頭している不幸な人々にとっては、外的な訓練こそ幸福に至る唯一の道なのだ。

p17

自己没頭の典型例として、以下の3つのタイプを挙げる。

「罪びと」「ナルシシスト」「誇大妄想狂」。

p17より

こういったタイプに代表されるような、不幸な人が、忘却に逃避する様子を描く。

一種類の満足を何よりも大事に思うようになり、自分の人生に一方向的な方向を与え、それとともに、その目的にかかわる諸活動ではなく、その達成のみをまったく不当に強調するようになる。(中略)人は、完全に意欲をくじかれたと感じるあまり、いっさいの満足を求めようとしないで、気晴らしと忘却のみを求める。「快楽」に血道をあげる。活動的に生きることをやめることで生活をなんとか耐えられるようなものにしようとする。たとえば、泥酔。(中略)酔いしれることを求める人は、忘却という以外の希望をあきらめてしまっている。そういう人の場合、真っ先になすべきことは、幸福は望ましいものだ、ということを納得することである。

p23要約

第2章 バイロン風の不幸

教養ある人が陥りがちなペシミズム。何の生きがいもない、世界には自分のすることなど何もないという絶望的な思いを抱くことによる不幸だ。

いっさいが空であるという気分は、自然の欲求がたやすく満たされることから生まれると説き、欲しいものを持っていないことこそ幸福の要素だとする。

人間という動物は、ほかの動物と同じように、ある程度の生存競争に適応している。だから、大きな富のおかげで、人間が努力しないでもおのれの気まぐれを満足させられる場合は、生活に努力が不要になったというだけで幸福の本質的な成分が奪われてしまう。格別強い欲望を感じていないものをやすやすと入手できる人は、欲望を達成したって幸福はもたらされない、と結論する。もしも、彼が哲学者肌の人であれば、人生は本質的にみじめである、なぜなら、ほしいものは何でも持っている人でも、なお不幸なのだから、と結論する。彼は、ほしいものをいくつか持っていないことこそ、幸福の不可欠の要素である、ということを忘れているのである。

p30

第3章 競争

幸福の主な源泉として、競争に勝つことが強調されすぎていることについて述べる。アメリカのモーレツサラリーマンの例が皮肉たっぷりに描かれているくだりが印象的だった(かなり長いのでここでは引用していない)。以下のくだりは、現代人に通じるところが大いにあると思った。

成功感によって生活がエンジョイしやすくなることは、私も否定はしない。たとえば、若いうちはずっと無名であった画家は、才能が世に認められたときには、前よりも幸福になる見通しがある。また、金というものが、ある一点までは幸福をいやます上で大いに役立つことも、私は否定しない。しかし、その一点を超えると、幸福をいやますとは思えない。私が主張したいのは、成功は幸福の一つの要素でしかないので、成功を得るために他の要素がうべて犠牲にされたとすれば、あまりにも高い代価を支払ったことになる、ということである。

p54

金持ちになるにつれて、金もうけはますます楽になってくる。挙句のはてに、一日五分間も働けば、どう使ったらいいのかわからないほどの金がころがりこんでくるようになる。こうして、かわいそうに、この男は、成功した結果、途方にくれてしまうことになる。成功そのものが人生の目的だと考えられる限り、どうしてもこういう事態にならざるをえない。成功したあかつき、成功をどうしたらいいかを教えられていないかぎり、成功の達成が、人を退屈のえじきにするのは避けられないことだ。

p56-57

人生の主要目的として競争をかかげるのは、あまりにも冷酷で、あまりにも執拗しつようで、あまりにも肩ひじはった、ひたむきな意志を要する生きざまなので、生活の基盤としては、せいぜい一、二世代くらいしか続くものではない。(中略)競争の哲学によって毒されているのは、仕事だけではない。余暇も、同じように毒されている。静かで、神経の疲労を回復してくれるような余暇は、退屈きわまるものだと感じられるようになる。競争は絶えず加速されるにきまっているので、その当然の結末は、薬物に頼り、健康を害することになるだろう。これに対する治療法は、バランスのとれた人生の理想の中に、健全で、静かな楽しみの果たす役割を認めることにある。

p60-61

第4章 退屈と興奮

人間は退屈を感じて興奮を求めてしまうものだが、幸福になるためには、退屈に耐える力が不可欠だという。

退屈の本質的要素の一つは、現在の状況と、いやでも想像しないではいられない他のもっと快適な状況とを対比することにある。また、自分の能力を十二分に発揮するわけにいかないことも、退屈の本質的要素の一つである。

p62

退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。

p63

私たちは、祖先ほど退屈していない。それでいて、もっと退屈を恐れている。私たちは、退屈は人間の生れつきの定めではなく、がむしゃらに興奮を追求することで避けられる、ということを知るようになった。いや、むしろ、信じるようになった。

p65

しかし、退屈は全面的に悪いものとみなすべきではない。退屈には、二つの種類がある。一つは、実を結ばせる退屈であり、もう一つは、人を無気力にする退屈である。実を結ばせる種類は、麻薬のないことから生じ、人を無気力にする退屈は、生き生きとした活動のないことから生じる。

p67

興奮に慣れっこになった人は、コショウを病的にほしがる人に似ている。

p68

一定の量の興奮は健康によい。しかし、他のほとんどすべてのものと同じように、問題は分量である。少なすぎれば病的な渇望を生むかもしれないし、多すぎれば疲労を生むだろう。だから、退屈に耐える力をある程度持っていることは、幸福な生活にとって不可欠であり、若い人たちに教えるべき事柄の一つである。

p68

幸福な生活は、おおむね、静かな生活でなければならない。なぜなら、静けさの雰囲気の中でのみ、真の喜びが息づいていられるからである。

p74

第5章 疲れ

神経の疲れや、その原因となる心配について述べる。何かの心配事を優柔不断にいつまでもくよくよと考えてしまうことが疲れとなり、不幸の原因となる。

対策としては、十分なデータに基づいて決断したらもう迷わないとか、最悪の事態を想定したうえで大したことではないと納得する、などの精神の訓練によって対応できるという。

今日、進歩した社会において最も深刻な疲れは、神経の疲れである。

p75

(…)疲れは大部分、心配からきている。そして、心配は、よりよい人生観を持ち、精神的な訓練をもう少しやることで避けることができる。

p78

きちんとした精神は、ある事柄を四六時中、不十分に考えるのでなくて、考えるべきときに十分に考えるのである。困難な、あるいはやっかいな結論を出さなければならないときには、すべてのデータが集まり次第、その問題をよくよく考え抜いた上、決断をくだすがよい。決断した以上は、何か新しい事実が出てきた場合を除いて、修正してはならない。優柔不断くらい心身を疲れさせるものはないし、これほど不毛なものもない。

p79

自己を超越するものに思考と希望を集中できる人は、人生の普通の悩みごとの中に、こちこちのエゴイストには望むべくもない、ある種の安らぎを見いだすことができるのである。

p80

何か災難が迫ったときには、起こりうる最悪の事態はどんなものであるか、真剣に慎重に考えてみるがいい。この起こりうる災難を直視したあとは、これは結局、それほど恐ろしい災難ではあるまい、と考えるに足るしっかりした理由をみつけることだ。そういう理由はいつでも存在している。なぜなら、最悪の場合でも、人間に起こることは、何ひとつ宇宙的な重要性を持つものはないからである。いっとき、最悪の可能性をじっくり見すえ、真の確信をもって、「いや、結局、あれはそう大したことにはなるまい」とわれとわが身に言いきかせたとき、あなたは自分の心配がまったく驚くほど減っていることに気づくだろう。

p84

あらゆる種類の恐怖に対する正しい道は、理性的に、平静に、しかし大いに思念を集中して、その恐怖がすっかりなじみのものになるまで考えぬくことだ。ついには、なじみのためにこわさが薄らいでくる。その事柄がまるごと退屈なものになり、考えがそこからそれていく、それも、以前のように、意志的に努力したからではなく、ただ、そういう題目に興味がなくなったからでる。あなたが何かをくよくよ考えこみがちになっているならば、それが何であろうと、つねに最善の策は、それについていつもよりも一段と多く考えてみることだ。ついには、その病的な魅力も徐々に失われていく。

p86

第6章 ねたみ

ねたみは、「自分の持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人が持っているものから苦しみを引き出す」という。ねたみを克服するためには、他人と比較せず、無益なことを考えないこと。

ねたみ深い人は、他人に災いを与えたいと思い、罰を受けずにそうできるときには必ずそうするだけでなく、ねたみによって、われとわが身をも不幸にしている。自分の持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人が持っているものから苦しみを引き出している。できることなら、他人の利益を奪おうとする。それは、彼にとっては、同じ利益をわがために確保するのと同じくらい望ましいことなのだ。

p93

ねたみは、実は、いくぶんは道徳的、いくぶんは知的な悪徳の一つの形であって、その本質は、決してものをそれ自体として見るのではなく、他との関係において見ることにある。

p96

こういう事態に対する適切な治療法は、精神を訓練すること、つまり、無益なことは考えない習慣を身につけることである。(中略)手にはいる楽しみをエンジョイし、しなければならない仕事をし、自分よりも幸運だと(もしかすると、てんで誤って)思っている人たちとの比較をやめるなら、あなたは、ねたみから逃れることができる。

p97

第7章 罪の意識

他者から刷り込まれた価値観と、自分の理性が矛盾する場合には、自分の理性でよく考えて、罪悪感を払しょくし、断固として自分の決断に従うべきだということ。

理性が悪くないと告げる行為について、あなたが後悔を感じはじめるようなときには、その都度、後悔の感情の原因を調べて、それが不合理なものであることを、いちいち得心することだ。あなたの意識的な信念を生き生きと協力なものにして、あなたが子供のころ、乳母や母親から受けた印象と十分に闘えるくらい強烈な印象をあなたの無意識に与えられるようにするとよい。

p113

実は、罪の意識は、よい人生の源泉になるどころか、まったくその逆である。罪の意識は、人を不幸にし、劣等感をいだかせる。自分が不幸なので、他人に過大な要求をしがちであり、ために、人間関係において幸福をエンジョイすることができなくなる。劣等感があるので、自分よりもすぐれていると思われる人たちに対して恨みを持つようになる。彼は、称賛はむずかしく、ねたみはやさしいのを発見するだろう。彼は、総じて感じの悪い人間になり、ますます孤独になっていく。

p117

私が勧めたいのは、人間自分が理性的に信じることについては、断固たる決意を持っているべきであり、それに反する不合理な信念を異議なくまかり通らせたり、たといつかのまであっても、不合理な信念に支配されたりしてはならない、ということである。

p118

憎しみやねたみを最小にする方法を発見することは、疑いもなく、理性的な心理の働きの一部である。

p119

第8章 被害妄想

被害妄想の適切な予防策となる4つのポイントを示す。「他人はそれほどあなたのことを考えていない」という指摘は痛烈だが、これを意識しておくと気持ちが楽になりそうだ。

第一、あなたの動機は、必ずしもあなた自身で思っているほど利他的ではないことを忘れてはいけない。第二、あなた自身の美点を過大評価してはいけない。第三、あなたが自分自身に寄せているほどの大きな興味をほかの人も寄せてくれるものと期待してはならない。第四、たいていの人は、あなたを迫害いてやろうと特に思うほどあなたのことを考えている、などと想像してはいけない。

p130

第9章 世評に対するおびえ

周囲の環境や、身近な人々からの承認が、幸福にとって重要であること。

ほとんどの人は、自分の生き方や世界観が自分と社会的関係を持っている人びと、とりわけ共に生活している人びとから大筋において是認されるのでないかぎり、幸福になれない。

p138

幸福を得るためには、環境を変える必要がある場合もあること。

だから、自分の環境とどうもしっくりいかないと思う若い人たちは、職業を選択するにあたっては、可能な場合はいつでも、気心の合った仲間が得られるチャンスのある仕事を選ぶように努めなければならない。よしんば、そのために収入が相当減るとしてもである。

p145

しかし、周りからの評価に左右されることなく、私たちが自由に考え、自分で生き方を決められることが、幸福のためには重要であること。

(…)世評に本当に無関心であることは、一つの力であり、同時に幸福の源泉でもある。そして、因習にあまり従わない男女からなる社会は、だれもが同じふるまいをする社会よりもずっとおもしろい社会である。

p150

世評に対する恐れは、他のすべての恐れと同様に、抑圧的で、成長を妨げるものである。この種の恐れが強く残っているときには、いかなる種類の偉大さをも達成することはむずかしいし、真の幸福を成り立たせている精神の自由を獲得することは不可能である。なぜなら、私たちの生き方が、たまたま隣人であったり親戚であるような人たちの偶然の趣味や希望によって決まるのではなく、私たち自身の深い衝動から生まれてくることが、幸福にとって不可欠であるからである。

p151-152

メディアが誰かをスケープゴートにして社会的に迫害する危険についてのくだり。SNSで誰かを晒すことが常態化している現在にも当てはまる指摘だ。

(…)この害悪に対する究極的な治療法は、ただひとつ、一般大衆が一段と寛容になることである。寛容さを増やす最善の方法は、真の幸福を享受しているがゆえに、仲間の人に苦痛を与えることを主な楽しみとしていない個人の数を増やすことである。

p152-153

第2部 幸福をもたらすもの

第10章 幸福はそれでも可能か

「幸福の秘訣は、興味を広く持つこと。」 本書のキーメッセージがここで登場する。

幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。

p172

第11章 熱意

前章に続き、興味を広く持て、というメッセージが続く。

人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなり、また、ますます運命に左右されることが少なくなる。かりに、一つを失っても、もう一つに頼ることができるからである。ありとあらゆることに興味を持つのは、人生は短すぎる。けれども、日々を満たすに足りるだけ多くのものに興味を持つのは、結構なことだ。

p176

ただし、趣味や欲望は、一定の常識的なものではなくてはならない。

私たちの別々の趣味や欲望は、おしなべて人生の全般的なわくの中にきちんと納まるものでなくてはならない。趣味や欲望を幸福の源にしたいのであれば、それは、健康や、私たちが愛する人々の愛情や、私たちが住んでいる社会の尊敬などと両立するものでなければならない。

p183-184

熱意を持てるためには、健康、エネルギー、面白い仕事が必要。

文明社会にみられる熱意の喪失は、大部分、私たちの生き方にとって欠かすことのできない自由を制限されていることによる。(中略)こうした熱意への障害を乗り越えるためには、人は、健康とありあまるほどのエネルギーが必要である。それとも、運がよければ、それ自体おもしろいと思えるような仕事を持つことが必要である。

p189

熱意のためのエネルギーを確保するためには、心理的葛藤からの解放が必要。

(…)多くの人々も、エネルギーの大部分を費やしている内面の心理的葛藤から解放されるならば、熱意を持ち続けることができるだろう。熱意は、必要な仕事に十分である以上のエネルギーを要求する。そして、今度は、このとが心理的機構のスムーズな働きを要求する。

p190

第12章 愛情

愛情は双方に与え合うものであるべき。

最上のタイプの愛情は、相互に生命を与え合うものだ。おのおのが喜びをもって愛情を受け取り、努力なしに愛情を与える。そして、こうした相互的な幸福が存在する結果、おのおのが全世界を一段と興味深いものと感じる。ところが、また別な、決してまれではない種類の愛情がある。この愛情においては、一方が他方の生命力を吸い取ってしまい、一方は他方の与えるものを受け取るくせに、お返しとしてほとんど何も与えない。活力にみちた人たちの一部は、この吸血型に属する。

p202

二人の人間がお互いに対して真の相互的関心をいだいているとう意味での愛情 ー つまり、お互いを幸福のための手段として見るだけではなく、むしろ、一つの幸福を共有する結合体だと感じる愛情は、真の幸福の最も重要な要素の一つである。

p203

第13章 家族

人間関係は、双方にとって満足のゆくものでなくてはならず、親子関係についても当てはまる。

あらゆる人間関係において、当事者一方のために幸福を確保するのはかなりやさしい。しかし、双方のために幸福を確保するのは格段にむずかしい。

p221

(…)私たちは、よい人間関係は両方の側にとって満足すべきものではなくてはならないと信じている。このことは、とりわけ、親と子の関係についてあてはまる(…)。

p222

親の所有衝動について指摘し、親が子供の人格に対する尊敬の念を持つべきというくだり。

現代で良く言われる「毒親」は、親が、子に対する支配欲を持ちすぎ、子供の人格に対する尊敬を欠いているという状態なのかも。

親の所有衝動は、(中略)大小さまざまな無数の仕方で親たちに道を踏み迷わせる。

p224

子供を支配する権力よりも本当に子供の幸福をこいねがう親は、(中略)衝動によって正しく導かれることだろう。そして、その場合は、親子の関係は、最初から最後まで調和しているので、子供には反抗心を起こさせないし、親には挫折感を抱かせないだろう。しかし、このためには、親の側に最初から子供の人格に対する尊敬の念が必要となる(中略)。

p225

「自己犠牲的な母親は、我が子に対して異常に利己的」。私の身近な女性たちにも、結構こういう母親がいるので、思わず膝を打った。良かれと思って女性に育児に専念させたところ、却って、母親にとっても子供にとってもよくない結果となるという。伝統的日本的家族感に対する痛烈な皮肉。

従来、自己犠牲的と称されている母親は、大多数の場合、わが子に対して異常に利己的である。というのは、親であることは人生の一要素として重要ではあるけれども、人生の全体であるかのように扱われるならば、不満足なものになるからである。そして、不満足な親は、とかく情緒的に貪欲な親になりがちだ。だから、母親のためにも、また同じように子供のためにも重要なことは、母親になったからといって、他のすべての関心や仕事から切り離されるようなことがあってはならない、ということだ。

p228

多くの子供が、母親の無知で感傷的な扱いによって心理的にだめにされている。

p229

第14章 仕事

世の中には、面白くない仕事もあるが、大抵の仕事は、人に満足感を与える。おもしろい仕事においては、なおさらである。

たいていの仕事は、時間をつぶし、野心へのはけ口(中略)を提供するという満足感を伴う。その満足感は、退屈な仕事をしている人をさえ、平均すれば、全然仕事をしていない人よりも幸福にするに十分である。しかし、仕事がおもしろい場合は、単なる退屈しのぎよりもはるかに高度な満足が与えられる。

p233

おもしろい仕事の要素は、技術を行使することと、建設性。

仕事をおもしろくする要素は二つある。一つは技術を行使すること、もう一つは建設である。

p233

熟練を要する仕事は、すべて楽しいものにすることができる。ただし、必要とされる技術は、変化に富むか、無限に向上させうるものでなければならない。

p234

最もすぐれた仕事には、しかし、もうひとつの要素が含まれる。この要素は、幸福の源としては、技術の行使よりもなお一段と重要である。それは建設性という要素だ。

p235

(…)建設の仕事は、完成したあかつきにはつくづく眺めて楽しいし、その上、もうどこにも手を加える余地がない、と言えるくらい完璧に完成されることは決してない。最も満足すべき目的とは、一つの成功から次の成功へと無限に続いて、決して行き詰まることのない目的である。

p237

幸福な人生にほぼ必須となる首尾一貫した人生の目的は、仕事において具体化される。

首尾一貫した目的だけでは、人生を幸福するのに十分ではない。しかし、それは、幸福な人生のほぼ必須の条件である。そして、首尾一貫した目的は、主に、仕事において具体化されるのである。

p241

第15章 私心のない興味

「私心のない興味」というのは若干分かりにくい表現だが、余暇のための趣味や娯楽のことだ。

この章で考察してみたいのは、一人の人間の生活の根底をなしている主要な興味ではなくて、その人の余暇を満たし、もっと真剣な関心事のもたらす緊張をほぐしてくれるといった、そういう二次的な興味のことである。

p242

前章において、仕事が幸福をもたらすとしながらも、仕事などの生活の主要事項ではない外部への興味を持たないと、息抜きができずに疲れるという。趣味や娯楽など外部への興味を持つことが、休息をもたらし、疲れから回復させてくれる。

不幸や疲れや神経過労の原因の一つは、自分の生活において実際的な重要性のないものには何事にせよ、興味を持つことができないことである。その結果として、意識的な心は、あるい少数の事柄から休息を得ることができなくなる。なぜなら、そうした事柄の一つ一つには、おそらく、多少の不安と多少の心配の要素が含まれているからだ。眠っているときを除いて、意識的な心が決して休むことを許されないのに対して、意識下の思いは、次第に成熟して知恵をつけていく。その結果、興奮しやすく、思慮に欠け、怒りっぽくなり、釣り合いの感覚が失われる。これらはいずれも、疲れの原因でもあれば結果でもある。人間、疲れれば疲れるほど、外部への興味が薄れていく、そして、外部への興味が薄れるにつれて、そうした興味から得られる息抜きができなくなり、ますます疲れることになる。この悪循環は、結果的にとかく神経衰弱を引き起こしやすい。

p243

外部への興味が気分を休めさせるのは、それがいかなる行動をも要求しないからだ。決断を下したり、意志を行使したりするのは、いかにもしんどいことである。

p243-244

さらに、気晴らしのほかにも効用がある。まずは、「釣り合いの感覚」を保てること。それは、世界が大きく、自分その小さな一部でしかないことを、忘れないでいられること。

私心のない興味は、おしなべて気晴らしとして重要であるだけでなく、ほかにも種々の効用がある。まず第一に、こういう興味は、釣り合いの感覚を保つのに役立つ。私たちは、自分の職業だの、自分の仲間内だの、自分の仕事の種類だのに熱中するあまり、それが人間の活動のどんなに微々たる部分でしなかいか、また、世界中のどんなにたくさんのものが私たちの仕事にまるで影響されないか、ということをとかく忘れがちである。

p246

そして、心配事があるときに、うまく対処できること。

私心のない興味が幸福に大きく寄与する理由は、もう一つある。この上もなく幸福な人生においてさえ、物事がうまくいかないときがある。(中略)そういう時期に、心配の原因以外の何かに興味を寄せる能力があれば、計り知れない恩恵になる。あれこれ心配してみても、さしあたり打つべき手は何もないといった、そういう時期に、甲はチェスをやり、乙は推理小説を読み、丙はアマチュア天文学に没頭し、丁はカルデアのウルでの発掘に関する本を読んで気晴らしをする。この四人は、いずれも懸命にふるまっている。一方、気分をまぎらせるようなことは何もしないで、心配事に完全に支配されるままになる人は、愚かにふるまっているのであり、行動すべき時がきても、自分の心配事にうまく対処することができなくなる。

p251-p252

不幸に見舞われたときによく耐えるためには、幸福なときに、ある程度広い興味を養っておくのが賢明である。そうすれば、現在を耐えがたくしているのとは別の連想や感情を思いつかせてくれる静かな場所が、精神のために用意されるだろう。

p252-253

第16章 努力とあきらめ

幸福のために、努力が大きな役割を演じる。これは分かりやすい。

幸福は、たいていの男女にとって、神の贈り物であるよりも、むしろ、達成されるものでなければならない。そして、これを達成する際には、内的ならびに外的な努力が大きな役割を演じなくてはならない。

p256

しかし、あきらめも、また幸福の獲得にとって役立つという。

あきらめにも、また、幸福の獲得において果たすべき役割がある。その役割は、努力が果たす役割に劣らず欠かすことができないものだ。賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。また、それだけなら避けられるような不幸に見舞われたとしても、もしも、それを避けるのに必要な時間と労力がもっと重要な目的の追求を妨げるようであれば、進んでその不幸を甘受するだろう。多くの人びとは、ささいなことでもうまくいかなければ、いつもじれたり怒ったりして、ために、もっと有益に使えるはずのエネルギーを多量にむだにしている。真に重要な目的の追求にあたっても、あまりにも思い入れが強すぎて、もしかしたら失敗するのではないかと考えて、心の平和が絶えずおびやかされるようになるのは賢明ではない。

p259

あきらめには、悪いあきらめと、良いあきらめがある。

あきらめには、二つの種類がある。一つは絶望に根差し、もう一つは不屈の希望に根差すものである。前者は悪く、後者はよい。

p260

あきらめは、自己欺瞞を捨て去り、本当の自分に向き合うためにも大切なことであり、幸福にとって不可欠。

おのれの真実の姿に進んで直面しようとする態度には、ある種のあきらめが含まれている。この種のあきらめは、初めのうちこそ苦痛を伴うにしても、最後には、自己を欺く人の陥りやすい失望と幻滅に対する防御 ー 事実、ただ一つの可能な防御 ー を与えてくれるのである。日ごとに信じがたくなる事柄を日ごと信じようとする努力ほど、疲れるものはないし、とどのつまりは、腹立たしいものはない。こうした努力を捨て去ることこそ、確かな、永続的な幸福の不可欠の条件である。

p265

第17章 幸福な人

最後に、幸福な人とは結局どんな人であるかを論じて、本書のまとめとしている。

結局、幸福な人とは、内向きで自分のことばかり考えて生きるのではなく、外への興味の純粋な関心を持って、自然な情熱に従って生きる人であり、社会とも調和し、本物の愛情を与えることのできる人、ということになろうか。

なお、外部への興味、というテーマは、既に何度も言及されており、ラッセルがとりわけ重視していることがわかる。

外的な事情がはっきりと不幸ではない場合には、人間は、自分の情熱と興味が内へではなく外へ向けられているかぎり、幸福をつかめるはずである。

p266

幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。また、こういう興味と愛情を通して、そして今度は、それゆえに自分がほかの多くの人びとの興味と愛情の対象にされるという事実を通して、幸福をしかとつかみとるひとである。愛情の受け手になることは、幸福の強い原因である。しかし、愛情を要求する人は、愛情が与えられる人ではない。愛情を受け取る人は、大まかに言えば、愛情を与える人でもある。しかし、利子をつけて金を貸すような具合に、愛情を打算として与えようとするのは無益だ。なぜなら、打算された愛情は本物ではないし、受け手からも本物とは感じられないからである。

p268-269

(…)愛は、ある限度を越えて利己的であってはならない。しかし、愛は疑いもなく、おのれの幸福が愛の成就と固く結びついているといった性質のものでなくてはならない。(中略)もちろん、私たちは、愛する人びとの幸福を願うべきである。しかし、私たち自身の幸福と引き換えであってはならない。実は、自己否定の教義に含まれている、自己とその他の世界との対立は、私たちが外部の人びとや物に本物の関心を寄せるようになると、たちまち、ことごとく消散するのである。

p273

すべての不幸は、ある種の分裂あるいは統合の欠如に起因するのである。意識的な精神と無意識的な精神とをうまく調整できないとき、自我のなかに分裂が生じる。自我と社会とが客観的な関心や愛情によって統合されていないとき、両者間の統合の欠如が生じる。幸福な人とは、こうした統一のどちらにも失敗していない人のことである。自分の人格が内部で分裂もしていないし、世間と対立もしていない人のことである。そのような人は、自分は宇宙の市民だと感じ、宇宙が差し出すスペクタクルや、宇宙が与える喜びを存分にエンジョイする。また、自分のあとにくる子孫と自分は本当に別個な存在だとは感じないので、死を思って悩むこともない。このように、生命の流れと深く本能的に結合しているところに、最も大きな歓喜が見いだされるのである。

p273

感想

1930年に書かれた古い本であるにもかかわらず、比較的読みやすいと感じた。

極めてロジカルな論調であり、ユーモラスで皮肉たっぷりな論調が小気味よかった。

ユニークなたとえ話をふんだんに使っていて(例えば、しっぽを失ったきつねの話、ソーセージ製造機の話、フエゴ諸島の司教の逸話を347回も話すAさんの話など)、思わずニヤリとさせられた箇所も多かった。

そして、最初の原書出版から90年以上が経った現在においても、全く色あせず、そのまま腹落ちするメッセージが、とてもたくさんあった。

たとえば、以下のようなものだ。

  • 自己没頭はせず、外に興味を持つ。

  • 自己を超越して、広い視野を持ち、宇宙レベルで考える。

  • 自分は小さく、狭い世界に生きているにすぎないことを意識する。

  • 他人に好意的にふるまう。

  • 愛情は、一方的に受け取るだけではなくて、与える。

  • 精神を訓練して、考えすぎないようにする。

  • 周りのネガティブな影響はシャットダウンし、自分が正しいと信じることを理性で追求する。

  • そういったことを、無意識の状態でもできるようにする。

  • 他人と比較しない。

  • 仕事も必要だが、趣味や娯楽なども大切。

  • 自分の現実を直視する。

  • どうしようもないことや、無駄にエネルギーを必要とすることは、潔くあきらめる。

そして、これらは、自分の心持ち次第でできることばかりである。つまり、幸福は、決して、運や不運のみに左右されてしまうものではなく、誰でも、ある程度は、自分の努力や心持ち次第で幸福をつかめる、ということだろう。

ところで、私は、幸せとは何だろう、と考えることが多く、「幸せって、こういうことなのかな?」という思いや気づきを、時々、記事にしてきた。

(本記事の末尾に、これらの記事へのリンクを貼っておきます。よろしければ、ぜひお読みください。)

本書には、そういった記事を書きながら考えてきたエッセンスが、驚くほどロジカルに言語化されていた。全て、ストンと腹落ちした。

この本に出会うことができて、本当に良かった。この本に書いてあることを頼りに、これからの残りの人生を、もう、迷わずに、幸せに生きていけそうだ。

人生の手引き。そんな風に思えた一冊だった。

ご参考になれば幸いです!

原書はこちら。

NHKの番組「100分de名著」の紹介ページはこちら。

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