この本読んでみ、ぶっ飛ぶぞ【エッセイ】
「人生で読んだ小説で一番おもしろかった小説は?」
こんな質問たまにされるけど、う〜んと考え込んでしまう。
候補だったらたくさんある。
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は何度も読んだ。
島田雅彦の『パンとサーカス』も傑作だ。
川上未映子の『ヘヴン』、辻村深月の『凍りのクジラ』
安部公房の『他人の顔』、三島由紀夫の『豊饒の海』、森見登美彦の『ペンギン・ハイウェイ』、太宰治の『人間失格』、カフカの『城』、石田衣良『ウエストゲートパーク』。
こんな風に夢中になって読みふけった、小説を挙げだしゃきりなし、枚挙にいとまなし。
でもさ、この中で一番って言われると、う〜んってなってしまう。
一冊を決めろって言われてもなぁ。
でも、ああ、この本かもなって本に出会ったしまった。
山門文治31歳。これから人生で一番おもしろい小説は、この小説の名前は・・・・
山門文治が、人生で一番おもしろかった小説は、町田康の『告白』だ。
本エッセイでは、この本の魅力を紹介する。
このエッセイを読み終わる頃には、今シーズンの秋の夜長のおともに一冊を買ってもらえたら幸いだ。
秋霖が降りしきる、そんな夜長は読書にうってつけ。
秋こそ読書が捗る、捗る。
まず、はじめにことわっておくが、この小説は800ページ超ある。
だから、現物が届くとあまりの分厚さに仰天する。辞書とかでしか見ない種類の分厚さである。
そんなページ数を聞くと、「じぶんは遠慮しときますわぁ」とブラウザバックしてしまう人がいるかもしれないが、安心してほしい。
そんなページ数忘れるほど、すぐ乗れる。そして、700ページくらい読み終えるころには、もう終わっちゃうの?とさみしい気持ちになる。むずかしい話ではないので、すらすら読める。
内容をすこし紹介しよう。
明治初期に実際に起こった河内十人斬り事件をモデルにした小説だ。いわゆるクライム小説というジャンルである。そして、この小説の帯には「人は人をなぜ殺すのか?」という、おどろおどろしいキャッチコピーが刻まれている。
「え?殺人系?スプラッター小説?グロいの嫌いだしなぁ」
と思った、あなたちょっと待ってほしい。本作は、笑いあり涙ありの人間ドラマが繰り広げられている。また、時代は明治の初期頃だが、特に背景知識も必要なく、現代の感覚で十分楽しむことができる一冊になっている。
小説の主人公の熊太郎が、河内長野で10人殺すという凄惨な殺人事件を起こすまでの生涯が書かれている。なぜそんなことをするようになったのかという挫折と葛藤が仔細に表現されており、読者は凶悪犯罪を起こす人間の人生を追体験するような物語設計だ。
熊太郎は、粗野で乱暴で博打打ちで、喧嘩に明け暮れるような日々をおくる、どうしようもない人間である。
だけど、なんか憎めないんだよな。なんなら鏡の中のじぶんを見つめているような気さえしてくる。不器用さ故に、人から理解されず誤解され、みたいな経験はだれしも一度や二度あるんじゃないだろうか。(もちろんぼくにもある、というか、今もその真っ只中にいるわけでw)
なんというか、「おれもこれやるなぁ」みたいな既視感の連続なのだ。
村からはみ出しものになっていく過程なんかには、身に覚えがあったり、失恋体験にも共感できたり、これから凶悪犯罪を犯す人間の感情に乗れてしまうのだ。そして、そんなみっともなさを笑いを交えて、はらはらドキドキあっという間に800ページを平らげてしまう。この作り込みが、町田康という作家の恐ろしいところである。
話は少し変わるが、数年前から、
ぼくらの社会には、無差別連続殺人や凶悪犯罪がなにやらきな臭い。
小田急線や京王線で、そのちょっと前には相模原の障害者施設で、その少し前は秋葉原で、大阪の池田小学校で。
ひろゆき風に言えば、「無敵の人」というやつだ。犯人は、みな口を揃えて言う。「誰でもよかった」と。
こんな犯罪が起きると、ニュースもワイドショーも連日大騒ぎ。
でも、それはセンセーショナルな部分が強調されたり、犯人が捕まるまでは喧しく、捕まって死刑になったら、だいたいみんなそのことを忘れる。そして、そんな人のことは「サイコパスだった」と他者化する。その名前が、社会から追放されれば、一安心みたいな、そんな弛緩の空気が瀰漫する。
責任者をクビにして体制変われば、すべてよくなると思っている組織のような間抜けっぷりだ。
「犯人はサイコパスだから……」
ああ、そうかもしれない。だが、そうさせてしまった原因が社会の方にだってあるはずだ。
そんな彼を社会から追放して、凶悪犯罪へと向かわさせてしまった社会の排除があるはずだ。
そんな彼も、あんな犯罪に向かわなくてよかった方の未来だってあったかもしれない。
責任者を社会から追放したから一安心。なのではなくて、やっぱり第二、第三の「かれ」を出さない社会的包摂が必要なんじゃないだろうか。
そういう社会づくりを根本から見つめ直さなければ、ならないのではないだろうか。
ナルト風に言えば、「逆だったかもしんねェ…」である。
つまり、他者化するのではなく、できるかぎりジブンゴトに引き受けて、「おれだったら」という想像力を働かせる。そうしたら、ほんのちょっとだけ、めのまえの「あいつ」に優しくできる。
きっかけさえあったら、人は変わる。
ぼくはそう思う。ぼくも京都で大学生をする前の5年間。つまり、高校中退してニートをしていた空白の時間。その時期には、熊太郎とそう遠くないところにいたと思う。社会に対して、それなりに恨んでいたと思う。
でも、ぼくの場合は、たまたま。本当にたまたま、きっかけがあった。でも、そんなきっかけもなく、不器用拗らせ、あんな極端な行動向かわせる現代の熊太郎がいるかもしれない。
そんな彼に、「よっ」とあいさつするだけで、もしかしたら未来が変わるのかもしれない。
あいつ、すみっこにいるから話しかけてみようかなぁ。と、ぼくはこの本を読み終えて思った。
明治維新後、日本は国というまとまりが生まれて、これまでムラってひとまとまりだった共同体の中には、個人としての名前が与えられ、日本人の中に、「私」という自我が芽生えたのは、この頃だ。
日本に、近代社会が誕生し、その中で生きる個人という単位に切り分けられた、それが明治という時代である。
そんな時代に、社会から追い出されたり、ハミダシモノは、多かれ少なかれ社会を恨むようになるだろう。
実際に行動に起こすかどうかは別にして、社会に対して恨みを抱く。
しかし、そんな彼にも、彼なりの葛藤や挫折があったのかもしれない。そして、なにより人間なのだ。
そういう意味では、凶悪犯罪というのは、そのサイコパス一人の問題ではなく、社会の問題だと思うんだよな。
喉元過ぎれば、なんとやら。サイコパスって、ラベル貼りつけ臭いものに蓋をする。その臭いがなくなれば、はい解決。
おかしくねぇか?そうじゃねえだろ。とまぁ、こんなことを秋の夜長に考えているわけである。