本当に怖いこと
疲労がある点を越えた状態で夜道を歩くと、物が人に見えるようになって2年経つ。
電信柱は灰色の服を着た男。ゴミ捨て場のポリバケツはうずくまった青い服の男。窓辺の植え木鉢は土気色の顔をした女。
どうやら幻覚のようなものらしく、正体を確かめんと注意をそちらへ向けると、ただの普通の物体にしか見えなくなる。
最初の内は、その幻覚にいちいち驚いていた。
想像して欲しい。夜道を歩いていると、自分から2、3メートルの範囲に急に人が現れるように感じるのである。
変な奇声をあげて驚いたし、大げさに飛びのいたこともあった。多分周りに誰も居なかったと思うが、もし僕の近くに人がいたとしたら、僕の方がよっぽど怖かったろうと思う。
この状態は、心身ともに疲れている時になるらしく、おおよそ1ヶ月に1回くらいの頻度で訪れる。
わりあい頻繁に発生するので最近ではすっかり慣れてしまっている。幻覚を見ても確認せずに流し、今日は疲れているから楽しいことだけ考えて酒を飲んで早く寝ようと決める。もはや、疲労を図るバロメーター扱いである。
しかし先日、完全に油断しきっていたところに恐ろしい目にあった。それも予想していたのとは違う形で。
自宅への帰路の途中にそこそこの長さの一本道がある。道の両端は石垣とガードレールに挟まれ脇道もなく、古ぼけた街灯は夜道をぼんやりと照らしていて、率直に言ってあまり夜に通りたくない道だ。
夜の10時くらいだったはずだ。一本道を歩いていると視界の隅に男が現れたが、歩みは止めなかった。すでに恐怖もなく、はいはいまたかといった感想しか抱かなかった。その時は疲労の自覚が特になかったので、むしろそのことの方が恐ろしく感じた。
元気な時にも見えるようになって、幻覚が常態化されると流石にしんどいし、今以上に自分の頭が心配になる。そんなことを考えながら通り過ぎようとしたら、男が身じろぎしたのである。
その時感じた恐怖は筆舌に尽くしがたい。佇むだけのはずの幻覚が動き始めたのである。予想外の動きにただひたすら驚愕し、反射的に獣のような叫び声をあげて男を見た。
男も目を見開いて、半ばのけぞりながらこちらを見ている。その段階でようやく自分の誤解に気付いた。幻覚なら注目した時点で消えるはずだ。つまり幻覚が動き始めたのではなく、普通の人間を幻覚扱いしていたことに気付いたのだ。
驚かせたことを詫びるのもそこそこに背を向け歩き出した。恥ずかしかったのもあるし、互いに落ち着いた後で改めてトラブルになるのも嫌だった。男は驚きから回復していないのか、終始何も言わなかった。
そうして、数歩進んだ所でふと思った。
いくらなんでも幻覚と人間を間違えるか?
一本道で脇道もなく、大きな遮蔽物もない。暗めとはいえ街灯もある。道に差し掛かった時点で道に人がいるのは判断出来るだろう。男を幻覚だと断じたのは急に視界の隅に現れたからだ。
どこから?どうやって?
勇気を振り絞ってというより、半ば衝動的に後ろを振り返ってみたら、そこには男の影も形もなかった。
先に述べたように一本道には脇道も大きな遮蔽物もなく、僕の視界から逃れるためには、全速力で道の突き当たりまで走らなければならないだろう。背を向けていたとはいえ、そのような足音も気配もなかった。
そのようなことを考え、しばらくその場に立ち尽くし、改めて恐怖に震えたあと、恐る恐る家路についた。我が家の玄関にたどり着くまで生きた心地がしなかった。
いくらか時間が経ち、冷静になった今改めて思うことがある。
あの時は相当恐怖していたが、もしあれが幽霊とか化物の類いであれば、実の所そう恐ろしくはない。何しろ僕の絶叫を聞いて消える程度の怪異である。
もう一度現れたとして、今度もビビり散らしながら叫んでやる所存である。
本当に恐ろしいのは、あれが幻覚であった場合だ。
どう考えても動いていたし、男の姿は本物の人間にしか見えなかった。ただ物が人に見えるという状態から確実に悪化している。次は何が起きるのか想像もつかない。
真実幽霊ならば、読経するか祝詞でも上げてやれば退散させられるかもしれない。しかし、幻覚ならば手の打ちようがない。対処しようとする自分自身がおかしくなっているのである。自分の影を踏もうとするようなものだ。
次に心身ともに疲労した時、幻覚達が動きださないことを願うのみである。
いやむしろ、あの男に幽霊として再登場して欲しい。中学生の時に無意味に暗記した祓詞を用意して、あの一本道で待っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?