さざえ鬼

twitterとかブログとかにアホなことばっかり書いてる反動で、思わず真面目なことを書…

さざえ鬼

twitterとかブログとかにアホなことばっかり書いてる反動で、思わず真面目なことを書いてしまったらここに放り込むことに決めました。

最近の記事

俺の忘却を越えてゆけ

どうやら僕の記憶はぼろぼろの虫食い状態になっているらしい。 ご飯はまだかいな? 一週間前に食べたでしょ、おじいさん。 いや、そこまでひどくなっている訳ではないが、一昨日の晩飯は何だったかと問われるともう思い出せそうにない。昔はそんなことはなかったはずなのに。 気付いたのはnoteの記事をひねり出そうと、自宅でうんうん唸っていた時だ。 面白そうなエピソードの断片は思い出せるのだが、ディティールは忘却の彼方にある。 あのとてつもなくもちゃもちゃして変な味がする、商品開発に失敗し

    • 本当に怖いこと

      疲労がある点を越えた状態で夜道を歩くと、物が人に見えるようになって2年経つ。 電信柱は灰色の服を着た男。ゴミ捨て場のポリバケツはうずくまった青い服の男。窓辺の植え木鉢は土気色の顔をした女。 どうやら幻覚のようなものらしく、正体を確かめんと注意をそちらへ向けると、ただの普通の物体にしか見えなくなる。 最初の内は、その幻覚にいちいち驚いていた。 想像して欲しい。夜道を歩いていると、自分から2、3メートルの範囲に急に人が現れるように感じるのである。 変な奇声をあげて驚いたし、大げ

      • 幸せな親へと捧ぐ呪詛

        本は読むタイミングが大事である。 幼少の頃に読んでいれば一生の宝になるかもしれない絵本も、中学生になってから読んだのではその幼稚さに一笑に付すだけで終わるかもしれない。 あるいは、小学生の頃に読めば1ページも読まずに放り投げてしまうような哲学書も、大学生の時分に読めばその後の人生の指針になるかもしれない。 そこまで大袈裟ではなくとも、より作品を深く味わえるタイミングはどの本にもある。ホラー小説においても、もちろんそうだ。 「死せるイサクを糧として」は、牧野修の「ファントム

        • 紅茶しかない風景

          その日ついに紅茶の茶葉以外の食糧がなくなった。 厳密に言えばマヨネーズとサラダ油はあったが、調味料や調理油を食材にカウントしない程度の分別は残されていた。 何故そのようなことになったのかと問われる向きもあろうが、特段の理由はない。単純に金がなかったからである。 社会に出たら嫌でも40年程働かなければならない。年金受給開始日の引き上げ如何によっては50年を超す可能性すらある。だからせめて大学生の間は絶対に働かない。 大学生だった頃の友人の言である。 モラトリアムの間、親の脛を

        俺の忘却を越えてゆけ

          暴走するマナー

          我々は様々な幻想に包まれて生きている。ここでいう幻想とは、我々が同様の認識を共有することで、あるものに実態以上の価値があると信じることである。 例えばお金。一万円の原価は意外に低いということはそこそこ有名な話だと思う。正確な原価は公表されていないが、どうやら20円~30円の間くらいであるようだ。 しかし、我々の中に一万円札を原価通りの価値で扱う者はいない。20円で作られたその紙幣を破格の100円で買い取ろうと、仮に僕が誰かに提案したとして、その誰かは鼻で笑うだろう。あるいは

          暴走するマナー