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人と繋がって新しい事を生み出すことを楽しめる人を育てたい/イノーバティーチャー インタビュー(山本功次郎さん)

未来の子どもたちのために教育にイノベーションを起こそうとしている教員InnovaTeacher(イノーバティーチャー)のインタビューシリーズです。コロナ禍で中断していましたが、3年振りに再開しました!再開後の初回は、横浜市公立小学校の山本功次郎さんです。

【プロフィール】山本功次郎さん
横浜市公立小学校の教員。現在キャリア24年目。複数の研究指定校や実践推進校にて実践提案を行い、学校教育における言語活動の充実や自学力の育成、汎用的資質能力を育むコンピテンシー・ベイスの授業デザインやキャリア教育の推進に邁進してきた。2018年には、同市教育委員会主催の大学院派遣研修に参加。横浜市立大学大学院 都市社会文化研究科で、ESDの視点から「子ども参画型まちづくり」の教育的な価値と社会的な意義について研究をまとめた。
現在は、学校外の多様な人々と繋がりながら、子ども参画型まちづくり活動を推進する認定NPO法人「ミニシティ・プラス」や横浜の市花であるバラを通して愛と感謝を広める「はまみらいラボ」、そして、誰もが授業をすることができるオンライン学校「応学社」の運営に携わり、自分自身のWell-beingと子どもの社会参画、そしてそれを受け入れる成熟した社会と持続可能な学校教育の実現を目指しながら、毎日を楽しく生きている。

恩師の影響が大きいんです

‐ なぜ教師になったのですか?

これまでに出会った恩師の影響が大きいんです。
高校3年の夏、ちょうど進路に悩んでいたときに、その頃は図書館で勉強をしていたのですが、たまたま月曜日で休みだったので仕方なく家に帰る途中に母校の小学校の体育館の前を通ったんです。そうしたら、小学校の時に朝練でバスケを教えてくれていたS先生が「功次郎くん、久しぶり。あのときの朝練をミニバスにしたんだよ。ずっとバスケやってたよね。体育館に入ってきなよ。」と声をかけてくれました。

時間もあったので、S先生との出会いがきっかけで続けてきたバスケのことを、少しでも子どもたちに教えることが出来るかな、と思って体育館に入ったんです。そうしたら、それがすごく楽しくて。小学生って反応がいいでしょ。ちょっとドリブルとかすると「すご~い!」と言ってくれて(笑) これは面白い!と思って。
「これが自分の生きる道だ!」と思うまでは本当に早かったです。まるで稲妻に撃たれたようでした。

進路に悩んで、このままなんとなく経済学部とかに行くのかな?とか思っていたこともあり、夢が見つかったのがうれしくて、すぐさま「俺は教師になる」と公言していました(笑) 周りには、やりたいことが見つからない友達もたくさんいたので「自分はラッキーだな」と思いました。

でも、この話はここでおしまいではないんです。自分の夢が見つかったその日、母親にも「俺は教師になる」って言ったんですね。そうしたら、母が「いつかそう言うと思ってた」って言ったんですよ。「H先生の影響でしょ」と。H先生は小学校5,6年の時の担任の先生なのですが、教室にタンスを持ち込んでたり、授業中に映画を何本も見せてくれたり、教室でカラオケ大会をやったり、今思うとかなり変わった先生でした。当時の僕は目立ちたがり屋だったので、ローラースケートを履いて教室を回り、光GENJIを唄ったりしてました(笑)

そんな変わり者のH先生が大好きだったんですよ。小5からずっと年賀状は欠かしたことがありません。そして、いま振り返ると、教師になった自分もH先生と同じようなことをやっているんですよね。初任校でやってた教室映画館やカラオケ大会もそうですが、自分も職員室では、「ちょっと変わっているよね」って思われてたりしますもん(笑) あの時、母が言っていたことは当たってたな、と思います。

教師になるきっかけを作ってくれたのはS先生なのですが、その土台として心の底で教師という職業への憧れを植え付けてくれたのは間違いなくH先生です。

いちばんは子どもの笑顔

‐ 先生になって良かったな、と思うことは何ですか?

良かったなと思うことはいくつもありますが、やっぱり”子どもの笑顔”を見られたときですかね。「先生、跳び箱がとべたよ!」とか「今日の給食カレーだねっ!」とか、満面の笑顔で嬉しそうに言いにきてくれるんですよ。ある日、「先生、習い事の帰りに金木犀が匂ってきたよっ」って、私が季節や懐かしさを感じる金木犀の香りが好きなんだ、と授業中の余談で話したことを覚えていてくれて、あそこで匂ってきて近くを探したらあったんだ、というのをすごく嬉しそうに話してくれる、そんな笑顔が見られると、瞬発的に嬉しいって思う。この仕事をしていて良かったな、と心から思う瞬間です。

校長が大学派遣を勧めてくれた

‐ これまでの経験で特に残っていることはありますか?

土台となるのは初任校です。私だけではないと思いますが、初任校で培ったものはずーっと自分の中に残っていくものだと思います。

それから2校目の研究校 白幡小学校ですね。世の中が言い出すよりもずっと前から、いわゆるアクティブラーニングをやっていて、その一つの形として子どもたちが授業を進め、先生は黒板の前には立たない授業を、全学年、全教科でやっていました。これはなかなかぶっとんでたと思います。
でも、そこにいた当時は、正直、アンチ研究な気持ちもあったんです。対外的な仕事や子どもたちの教育に直結しない仕事も増えるので、目の前の子どものことを見てないんじゃないかって、本音と建前みたいなことも嫌いで、けっこうワーワー言ってました。すごく生意気だったと思います(笑)

だけどその時の校長が妙に私のことをかってくれていて、大学派遣に行った方がいい、と言ってくれました。現場主義だった私は、今さら大学行っても何も学ぶものはないと何度も断ったのですが、それでも粘り強く声をかけてくれたんです。功次郎さんは感覚でやっている。力はあるけど、そこに理論を身に付けたらものすごいものになるから、あなたは内地留学に行きなさい、と言ってくれたんです。

ついに根負けして、大学院派遣の選考を受けることになるのですが、そしたら落ちたんですよ。
落ちると悔しいじゃないですか。そしたらだんだん気持ちが燃え上がっちゃって(笑) 結局学校が変わっても受け続け、4回目でようやく合格したんです。

行先も変わりました。最初は横浜国立大学の教育学部に行こうかと思っていたのですが、新たに横浜市立大学への大学院派遣研修の募集が始まったんです。ここには教育学部はありません。地域や社会、まちづくりについて学べる都市社会文化研究科っていうのがあって、総合的な学習の時間が好きだったので、これはちょっと面白そうだな、と思ったんです。
それで、自分がそのとき興味があったESD(持続可能な開発のための教育)についてもっと深めていきたい!みたいなことをだーっと書いたら受かりました(笑)

ここはメチャメチャ面白かったです。だって自分の知らないことだらけなんです。学校の外ってこんなに素敵な人たちがいっぱいいるんだ、世の中の仕組ってこうなってるんだ(笑)って。自分は全くわかってなかったことに気付かされ、すごくワクワクしました。
SDGsに企業が取り組み始めていたのに、学校はこういうことを全然知らないなと感じて、子ども参画型まちづくりの教育的な価値と社会的な意義をESDの視点で考察する研究をしました。

現場を離れて時間があったので、研究に関わる取材とか、様々な活動に参加し、多様な業種の方や素敵な方とたくさん出会いました。その旅の途中で、小林さんにも出会ったんですよね。繋がりがたくさん生まれました。

学校外での学びは教員としての転換期でした

‐ そのときの経験は今も生きているんですね

そうですね。それは大きかったです。自分の中で教員としての転換期です。教育観も変わりました。

‐ どんな風に変わったんですか?

土台となっているものは変わらずにあると思うんですが、もっと外に目を向けないといけないな、と思いましたし、不易と流行のなかでどちらかと言えば不易の方に軸足を置いていたのが、流行にも目を向けるべきだな、と思ったり。あとは子どもたちが社会に出ていく姿が想像できるようになったので、このままじゃマズいだろうと思うようになりました。子どもたちに社会で生きる必要な力を付けてあげられてないんじゃないか、ということが見えてきたりしました。

‐ 授業のスタイルは変わったのですか?

授業のスタイルは変わったところもあるし、これまでやってきたことが間違いではなかったんだ、と思った部分もありました。感覚でやってきたことが価値付けられたことは大きかったですね。子どもの主体性を大切にし、授業を子どもたちに委ねてきたことは間違いではなかったと、その時にすごく思いました。

先輩のクラスでは子どもたちが授業をしていた

‐ 子どもに委ねる授業はいつから始めたのですか?

実は白幡小学校に行く前からやっていたんです。それで、白幡小に行って、全校で取り組み、全国に発信しようとなったときは、少し驚きましたが、「きたー!」と思いました(笑)

初任校のときに、私はまだ若く子どもたちと歳も近いというのもあり、それなりに「先生ありがとう、このクラスが大好き」と言ってもらえるような学級経営ができていました。だけどそのときに、すごく尊敬する先輩がすごい子どもたちを育てていたんです。どの子も互いに尊重し合い、自主自立が半端ない。若さだけが武器だった私は、その秘密が知りたくて、若手の特権でしょっちゅうそのクラスを覗きにいってました。

そうしたら、各教科で、教科係を作って子どもたちが授業を進めてた

そこで、初任校の時に見様見真似でやってみました。たしかに子どもたちは楽しそうだし、自分でやっている感があるし、どっちに行くかわからないライブ感があって面白いな、と直感的に思ったんです。

2校目で授業研究として実践を重ねて、自分のなかで整理されてきた感覚がありました。

ただ、自分のものになったのは3校目でした。

研究校の中で大学の先生から教わったり、みんなで実践していくことはとても良い経験だったと思うのですが、どこか受け身だったんだと思います。、授業研究の素地のない学校に行って、これまでとは違う環境で自分なりにアレンジしながら子ども主体の授業をカスタマイズした時に、本当に自分のものになった気がしました。

子どもに任せる授業は間違っていないと感じているんです。最初は、自分が説明したり授業をした方がわかりやすくコンテンツを伝えられると思ったんです。でも、これあまり子どもたちの中に残らないんですよ。いくら教師が良い授業をしても、わかりやすいのはそのときだけで、子どもたちの中にあまり残らないんです。
それよりも、子どもたち自身が授業を回し、自分たちの言葉でやり取りをしていく方が、思考力や表現力も高まるし、知識や理解も深まるし、成果が大きいと思ったんですよね。

これが、子どもたちに任せて進めることを大切にしている理由です。

ハイサポートからローサポートへ

‐ 実際の授業はどんな形で進むのですか?

学校によって状況も違うので、子どもたちの実態を見て、導入の仕方を変えていました。係を決めてやったこともあるし、やりたい人を挙手で選ぶこともあります。「きみたちが先生やってみない?」って投げかけると、初めはクラスのエースみたいな子たち数名が挙手してやってみたい、と言うんです。先生ごっこみたいな感じですが、そうすると周りの子どもたちも、友達が前に出て授業を進める方が面白い、と言い出します。そうなればしめたもので、先生役をした子たちはものすごくいい顔をしてますし、次は自分もやってみたい、自分にもできるかもしれないという子が、じわじわと増えていくんです。

私は横に立っていて、このままだと違う方向に行ってしまうな、という時に修正したり助言を与えたりして寄り添いながら見守っています。最初は結構ハイサポートですけど、だんだんローサポートを目指してやっていく感じです。

これって結構大事だと思うんです。学校ってずっとハイサポートで行きますよね。それが教師の自己有用感を高めている側面もあるのではないかとさえ感じることがあります。でも、それではずっと子どもたちは育ちません。だから、ハイサポートからローサポートへ、ということを大切にしています。

イマジネーションとクリエーション

‐ こんな学校になってほしい、というのはありますか?

子どもたちには、人と繋がりながら新しいものを生み出していくことを楽しめる人になって欲しいな、という願いがあります。
それって、先生たちもそうなっていないと実現しないと思っていて、それが職員室に足りないな、と感じています。

子どもたちには2つの”そうぞう”を大切にしよう、とよく話します。イマジネーションとクリエーション

新しいものを創ろうよ、想像力を働かせて今までの当たり前を見直し、自分たちで新しいものを創造していこう、と言っています。

一方で、職員室ではこれがなかなか難しい状況にあります。原因はいろいろあると思うのですが、いわゆる手段の目的化というのが大きいと感じています。
学校って失敗ができないんです。教室で子どもたちに失敗してもいいんだよ、そこから学ぶものがあるよ、とか言ってるわりに、職員室ではそれを嫌います。失敗ができないから、昨年度と同様でいこうとか、学校全体で手段を揃えようということ発想になり、いつの間にかそれが目的化してしまう。前例踏襲と同調圧力が蔓延した、学校あるあるです。手段の目的化が進むと先生たちの想像力は低下し、新しいものは生み出されにくくなります。最近特に感じる、失敗を許さない不寛容な世の中の風潮も考えものです。

この悪循環をなんとかしたいな、と常に思っています。

人と繋がって新しいものを創り出す、というのは、私自身の在りたい姿でもあるんです。こういうことを楽しめる人でありたい、と思っています。

楽しめる、といのはとても大事だと思っています。楽しめることは、持続可能性と大きく関連していると思っているんです。何事もそうですが、楽しくないことは続けられません。ESDの視点からも、学校はもっと楽しい場所でなきゃ、と思います。

今、こうやって話しているのも楽しいです(笑)

ボウイと持続可能な学校を目指して

もう一つは変化、変容です。ディズニーランドは、常に変化することで、あれだけ入場者数が持続できる、というか増えていってますよね。それは、ディズニーランドが現状に満足することなく、常に変化、変容していきたからです。現状維持は衰退の始まりというようなことを、言葉は違えど、ウォルト・ディズニーも松下幸之助も言っています。

僕はデビッド・ボウイが大好きなんです。常に変化していますよね。グラムロック時代も、プラスチックソウル時代も、ベルリン時代も、彼はその時代その時代で全然違う。まるで別人のようですが、その一方で一貫するボウイらしさもある。40年以上のキャリアにおいて第一線で在り続けたのは、彼が変化していったから、変わることをためらわなかったから。僕はデビッド・ボウイで在りたいな、と思ってるんです(笑)

これからの学校は変化、変容を恐れず、変わっていくようでないと持続可能ではないし、衰退していってしまうという危機感があります。

働き方改革も学校が発展するためにやらないといけないと思っています。だって、外にアンテナを高く立てられないんです。目の前にあるいろいろな諸問題、昔から続く効率的でない仕事をこなすことに精一杯になっていて、全く学校の外に目を向けられないんです。みんな一生懸命ですよ。先生たちだけが悪いのではなくて、そういう状況もあると思います。働き方改革を進めながら、学校は変化、変容をしていかないといけないな、と思っています。

【インタビューを終えて】

山本功次郎先生は、常に前向き。横浜で映画"Most Likely To Succeed"の上映会をやりたいという話が出た時にお誘いしたら二つ返事で「やりましょう」と乗ってきてくれました。この時は会場の参加者数の記録を更新するほどの盛況ぶり。功次郎さんが誘ってくれた先生たちの熱気ですごかった。
今回のインタビューで、功次郎さんが「人との繋がり」「想像と創造」、そしてそれを楽しんで変化していくことを大切にしていたことを知り、その考え方が毎回楽しい場を作っているのだと理解しました。

そして、功次郎さんがデビッド・ボウイを目指していたとは。だんだんデビッド・ボウイに見えてきました(笑)

横浜での Most Likely To Succeed上映会

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