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5000文字の短編『終わりに向かう世界と、』


うだるような暑さに僕は思わず顔を歪ませる。時折木々がざわめいて、ふわりと運ばれて来る微風が少しだけひんやりとして気持ちが良い。体にべったり張り付いたTシャツの胸元をパタパタ動かしながら母の横を歩く。境内の狭い石畳を大勢が往来して、肌を焦がすような陽射しが彼らを照らす。人熱れに酔った僕は、とにかく早く家に帰りたい、それで頭がいっぱいだった。



一時間ほど前、冷房の効いた自室で寝そべって漫画を読んでいると、母が突然部屋にやってきて言った。近くの神社で風鈴祭りをやっているから行くよ、と。
嫌だと言っても、結局は連れ出される事になるのは分かっていたので嫌々だが着いてきて今に至る。




八月の終わり、片手で数えられる日数でもうすぐ九月になる。夏休みは最初こそ友達と外で遊び呆けたが、例年以上の記録的な暑さだという今年の夏は、八月の後半を迎えた今、いよいよ我々子供たちの遊ぶ元気まで奪い取ってしまった。これが夏バテというやつか、と思ったが母はいつまでもその様子を見せなかった。


カラフルに塗られた風鈴たちが思い思いに揺れている。それぞれが違う高さの音を奏でている。この神社では"風鈴祈願"といって、短冊を風鈴に吊るすらしい。大学受験合格しますように、とか、〇〇君とずっと一緒に居られますように、とか、アンパンマンになりたい、と、可愛らしい文字も見えた。ついさっき僕と母も受付で短冊を貰って願い事を書いたばかりだった。


『どこに吊るそうかね。さっきからいい感じの風鈴探してるけど、どれもたくさん吊るされてるから空きがなかなか無いね』

母はそう言って、直後に足を止めた。



母は、これでいいじゃん、とひとつの風鈴を指さして言った。横に立って見るとそれは透明の風鈴だった。他のは、赤とか水色とかの色がついていて綺麗だけれど、それだけは全くの無色透明で、なんだか周りから少し浮いていた。その風鈴には神社の名前が印刷された白紙の短冊が一枚だけ吊り下げてある。透明の風鈴は面白味がないのか、色とりどりの物よりも人気が無いらしい。

別に僕は何でもいいので、言われるがままその風鈴に短冊を吊り下げた。母と僕の短冊のおかげで寂しく無くなった風鈴が、どこか嬉しそうに揺れて『チリンチリン』と素朴な音色を奏でた。

『昔の人はね、風が人の想いを運ぶって信じていたの。今みたいに電話もメールもなかった頃、彼らは伝えたい人へ届きますようにって風に大切な想いを託すの。この風鈴の音はね、そんな想いを運ぶ風の音色なんだよ』


母はそう言って僕を見下ろした。
それは見慣れた優しい笑顔だった。


へぇ...。なんか昔の人って面白いね、と僕は言った。



ー母はその日の夜、目の前で消えたー




終わりに向かう世界と、僕と




夜が明けて朝を迎えても、僕の街はしんと静まり返っていた。
朝五時にポストを開け、新聞を差し込んで去っていく原付の音も、近所に住む顔見知りのおじいさんが日課にしている散歩の、あの不規則な足音も今日は聞こえて来ない。

母が消えて、そのまま夜が更けた後、僕は眠れる訳もなく、人々が消えた街を数時間彷徨った。目抜き通り(だった)は、軒を連ねる居酒屋からいつもの様に明かりが漏れていたけれど、覗き込んだ店内はもぬけの殻で、食べかけの焼き鳥とか、泡の消えて半分くらいまで減ったビールが、ついさっきまで賑やかだったであろう様子を静かに物語っていた。店の前には後部座席のドアが空きっぱなしのタクシーが停まっていて、きっと乗客は降り立った直後、仕事で疲れてビールと焼き鳥に馳せた思いが最高潮のタイミングで消えてしまったのだ、と僕は思った。


どこを探しても人間は僕一人だった。電話はどこにも繋がらず、テレビは何も映していない。Twitterのタイムラインは、誰の呟きも更新しなかった。

自室に戻り、母から中学の入学祝いで買って貰ったノートパソコンを起動する。
最近流行りのAIチャットのWebページを開いた。
『最近のAIは凄いぞ、人間みたいで、作文書く時とかよく使ってる』と言ってクラスの奴が教えてくれたのだ。そんな物に頼ってどうする、と思ったが、こんな時にはなにか頼りになるかもしれない。

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"こんにちは!私は人工知能です!何かお手伝い出来ることはありますか?"

"街から突然人が居なくなってしまいました。テレビとかツイッターを見ると、たぶん世界中の人がみんな、一斉に居なくなったみたいです。僕はどうすればいいのでしょうか"

"この状況は非常に深刻であり、パニック状態になることは理解できますが、まずは冷静に行動することが重要です。
最初にすべきことは、自分が安全であることを確認することです。周囲に危険が迫っている場合は、安全な場所に移動する必要があります。また、食料や水などの必需品を確保することも重要です。
次に、緊急事態に備える必要があります。救急キットや災害対策用品を準備し、必要に応じて使用できるようにしておくことが重要です。最後に、この状況がどのように起こったのか、何が起こっているのかを理解するために情報を集めることも重要です。テレビやラジオ、インターネットなどのメディアを確認し、政府機関や救急サービスの発表にも注意を払いましょう。
このような緊急事態においては、冷静に行動し、安全を確保することが最も重要です。必要に応じて専門家や救助隊に連絡し、指示に従うことが重要です。"

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だから誰も居ないって言ってるだろ...

そう呟いて、僕はノートパソコンを閉じた。
それに、今が一番緊急事態じゃないか...。
AIはいつだって正しいことを、プログラム通りに教えてくれるかもしれないけれど、今の僕に必要な情報はなにひとつ得られなかった。

僕は勉強机の上で頭を抱えた。よく、眠る前に妄想した自分以外の人間が突然消えた世界。僕はそこでは、欲しかった物を片っ端から手に入れ、好きなものを食べ、知らない人の車を盗み好きな所へ行く。

だが、現実ではそんな事をする気持ちには到底ならないのだった。突然そんなことが起きてもただ茫然とするしかない。まだこの状況を受け入れることが出来ないし、現実感が無いのか、妙に冷静な頭の中がなんだか可笑しくもなってくる。


喉が渇いて、台所に行った。冷蔵庫を開けると昨日母が作ったカレーの余りにラップがかかっていた。食べないとダメになる。そう思って電子レンジにそれを入れてスイッチを押した。


母はカレーをよく作った。いつも人参とじゃがいもがかなり大きくて、塊の肉じゃなくてひき肉をよく入れていた。甘くてちょっとしょっぱい母のカレーは僕の大好物のひとつで、いつもご飯を必要以上におかわりしてしまう。それをわかっている母は、カレーの日はいつもより多めにご飯を炊いていたのだった。


振り返ると、昨日母と向かい合ってそのカレーを食べたテーブルがある。そこに、母と僕の幻影が見えた。
『夏休み、もう少しだけど宿題は終わったの?あんた全然やってるところ見ないけど大丈夫なの』
『うるさいな、もうとっくに終わってるし』
『あら珍しい、篭って漫画読んでるだけかと思ってたよ。すごいねぇ、偉いねぇ』
そう言って母が嬉しそうに手を伸ばして僕の頭を雑に撫でた。
僕は鬱陶しそうに手をはらいのけた。けど、本当は嬉しかった。口元が緩むのを、わざとらしく咳き込んで誤魔化した。


その直後だった。
母は目の前で、消えた。


よく映画とかで見るような演出もない。砂のようにサラサラと消えるとか、天に昇っていくように、とか、少しづつ薄くなって...とか、そんなことはまったく無かった。母は一瞬で、ふっと消えた。
テーブルには乾いた二人の食べかけが、その時のまま置いてある。

母の手が頭を撫でた感触を思い出す。暖かくて柔らかい手のひらの感触。同時に母との思い出も、雪崩のように蘇ってきた。
いつの日か、小さい時に旅行で連れていってもらった、離島の海の景色。動物園で、初めて生で見るライオンが怖くて、ぎゅっと握りしめた母の大きな手。熱を出した日に、慌てて迎えに来た母の、ひどく心配する表情。



母はいつも元気な人だった。パートで遅くなっても疲れをひとつも見せずに、ゲームをしようとか、映画を見に行こうとか、いつも僕に言ってきた。その度に、ひとりでやれとか、こっちは疲れてるとか言い返した。
もっと、もっと母と、そういう時間を過ごせばよかったと今にして後悔する。

カレーが温まったと、レンジが知らせる。炊飯器に残った、ちょっと乾いたご飯をぜんぶよそう。食べかけを横にずらして席に着いた。


いただきます、と呟いた声が暗い台所で虚しく響く。


母の作った最後のカレーを、スプーンで掬って口に運ぶ。


ーその途端、涙がぐっと込み上げてきたー

ーああ、もうだめかー


抑えていた感情が、ついに溢れ出した。

母にもう一度だけ会いたい。会って、ありがとう、と言いたい。
産んでくれて、育ててくれて、心配してくれて、色んな事を教えてくれて、ありがとう、と。


もう、向かいに母が座ることは無いのだろう。
僕も、もうじき消えるのだろうか。どうして僕だけ残っているのだろうか。僕もあの時、みんなと一緒に消えていれば、こんな気持ちにはならずに済んだのに。



母のカレーはいつも、キャラクターの描いてあるレトルトみたいに甘くて、もう大きくなったんだからもっと辛くしてもいいよって、そう言おうと思っていた。母が実は辛いもの好きだと僕は知っていた。だから、その言葉を用意していたのに。

辛いもの、だいぶ平気になったんだね、と向かいで微笑む母の姿が浮かぶ。

声を出して泣いて、カレーを掻き込む。
誰にも届かない、僕の泣き声。

助けてほしい。どうか、他にも僕みたいに消えていない大人が居て、僕を孤独から救い出して欲しい。僕は一人で生きていけない。どうか、どうか...。


僕はその後、水分が抜けて乾涸びてしまうくらい泣いた。

最後のカレーは、味がよく分からなかった。



目が覚めると身体中が痛い。台所で、テーブルに突っ伏したまま眠っていたらしい。時計を見上げると、時間は夕方の六時を回っていた。泣き腫らした目がヒリヒリとする。今は疲れて、なんだか全部からっぽになった気分だった。

勝手口横の小さい窓から風が流れ込んできた。
今夜はいつもより少しだけ過ごしやすそうだ。

そういえば、と思い出す。


風鈴祭りで、母は短冊にどんな願い事を書いたのだろう。あの時は、暑さと早く帰りたい気持ちでまったく気に留めていなかった。


僕は居てもたってもいられなくなって、さっそく神社へ向かうことにした。



終わりに向かう世界と、僕と、母の願い



まだ日が落ちない時間とはいえ、木々に囲まれた神社はもう薄暗かった。昨日は人でごった返していた石畳が広々として見える。昼間の猛暑はなりを潜めて、涼しい風が木々の隙間から吹き付けて気持ち良い。

僕は風鈴のトンネルを進む。

もう居ない人たちの願いを一つ一つ見て歩いた。
それはどれも切実な願いに見えた。人々は、なにも絶対に叶わないような奇跡を待ち望んでいる訳では無いのだと、そう思う。


端から眺めているとやがて透明な風鈴を見つけた。


あれから短冊を吊るした人は居ないらしい。僕と母の願い事が背中合わせで寄り添いあっていた。

僕の書いた、どうしようもなく下らない願い事を裏返すと、母のが見えた。

"孫の顔を拝みたい!
それまでは絶対に健康で長生き!!"


母の短冊にはそう書かれていた。

あれだけ散々泣いたのに、身体中のまだ少し残った水分を限界まで搾るように、また涙が溢れた。


お母さんごめん。孫の顔は見せられそうにないです。親不孝者でごめん。もっとありがとうって言いたかったよ。もっと話したり、色んなところに行きたかった。


僕は無人の受付に行って、短冊を手に取った。僕の心からの願い事を書く事にしたのだ。


古い方の僕のやつは外して捨てて、新しい短冊を吊り下げる。


母が言っていた、昔の人が風に願いを託す話を思い出す。


僕の願い事と、母の願い事。それは風に運ばれて、きっと届くはずだ。


透明な風鈴が優しく鳴った。僕は目を閉じた。


人々の願いが、風に揺られて旅立っていく。


きっと、届く。僕はそう信じている。また会える時のために、必死で生きていかないと。そう決意する。


僕は風鈴を背に歩き出した。スーパーに寄って、帰ったら辛いカレーでも作ってみよう。


さっきよりすこしだけ清々しい気持ちになった僕は、そんなことを考えながら、夕暮れの神社を後にしたのだった。



















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