カジュアルに哲学|『死に至る病』編 vol.1 絶望ってどんな病気?
「カジュアルに哲学」は、哲学の名著をカジュアルに解説していくコーナー。
第一弾はキルケゴールの『死に至る病』。
絶望は「死に至る病」。でもそれってどんな病気? どこが悪くなるの? キルケゴールと一緒に絶望のことを考えよう!
1. 絶望病院へようこそ!:絶望という病気を知ろう
『死に至る病』は、ざっくりいうと、絶望という病気をお医者さんが診断していく本です。「絶望とはどんな病気なのか」「どうやって発症するのか」「進行度はどれくらいか」「治すには何をすればいいか」などなど、お医者さん・アンティ=クリマクス(※1)による診断が語られていきます。
さて、体調不良を訴える人に対して、お医者さんが初めにすることは、「それが何の病気なのか」「どこが悪いのか」を特定することでしょう。『死に至る病』も同様に、絶望がどんな病気なのかをまず初めに明らかにします。
2. 絶望は「精神」の病気:精神ってどうなってるの?
絶望で悪くなるのはどこか? それはズバリ、精神です。でも、精神って何? という方向けに、優しいアンティ=クリマクス先生は最初にちゃんと説明してくれます。
やさしくねえ~~~!!!!
「関係それ自身に関係する関係」って何よ…「チャウチャウとちゃうんちゃう?」みたいな語感しやがって…
それはさておき、「関係それ自身に関係する関係」とはどんなものでしょうか。これを理解するためにまずは「カレーライス」の話をします。
3. 精神の構造:精神は「カレーライス」
アンティ=クリマクスによれば、人間は相反する二つの要素が組み合わさってできています。自由に行動できるけど、自然法則にはしたがって至り、可能性は無限だけど、才能には限界があったり、などなど。
つまり、人間とは「カレーライス」のようなもの。カレーとライスという異なる二つの要素の組み合わせなのです。
しかし、ただ二つのものが組見合わさっているだけでは、「関係」があるだけで「関係それ自身に関係する関係」ではありません。さしあたり、それは「消極的統一」、つまり「カレーとライスのセット」にすぎません。
ここで、カレーとライスはそれぞれ、「カレーとライスのセット」に「セット内容」として関係しています。それによって「カレーとライスのセット」という関係が出来上がっています。
ここでは、カレーとライスは同じお盆にこそ乗っていますが、まだお皿は別々です。「セット=ひとつ」であるという自覚が足りてません。友達以上恋人未満ってところでしょうか。
「カレーライス」になるには、カレーとライスが同じひとつのお皿に盛りつけられる必要があります。その場合、すでにある「カレーとライスのセット」という関係に手を加えること、つまり関係に関係することになります。カレーとライスを「ひとつの皿に盛りつける」ことこそ、「関係それ自体に関係すること」なのです。
「関係それ自体に関係すること」によって完成する「カレーライス」は「積極的な第三者(統一)」です。友達以上恋人未満の壁を越えて、カレーとライスは結ばれたのです!! 結婚おめでとう!!
人間も同様です。自由と必然という異なる二つのものが、ただ同じ人(お盆)の中に入っているだけでは、ただの「自由と必然のセット」に過ぎません。精神とは、自由と必然が一つのお皿に盛りつけられたものであり、むしろ「一つのお皿に盛りつける(=関係に関係する)という関係」なのです。
4. 絶望の原因:「カレーライス」からは逃げられない
でも、カレーとライスをわざわざ一つのお皿に盛りつける必要ってあるんでしょうか? お皿別々の方がいい人もいますよね?
アンティ=クリマクス先生に言わせれば、カレーとライスは絶対に一つの皿に盛りつけなければなりません。何故なら、「カレーとライスのセット(人間)」は「カレーライス(精神)」になるべくして作られたからです。
このように、「カレーライス」作りが義務付けられていることによって、また一つ別の関係が生じます。それは、シェフ(他者)との関係です。
シェフオススメの食べ方に従って「カレーライス」を作る時、そのひとはカレーとライス以外にシェフにも関係しています。というのも、そこには「ひとつのお皿に盛りつける」以外にも、「シェフの教えに従う」というひと手間(関係)が加わっているからです。「カレーライス」は、わたしたちがカレーとライスを一つのお皿に盛りつけること(関係に関係すること)によって出来るものであると同時に、シェフの教えに従うことで出来るものでもあるのです。これを難しく言うと以下のようになります。
早口言葉かよ。
絶望の原因は、このように「カレーライスが義務付けられている」ことのうちににあるのです。
5. 二つの絶望:「カレーライス作りたくない!」「これがおれのカレーライスだ!」
さて、絶望が発症するところの精神とは以上のようなものでした。つまり、「一つのお皿に盛りつけるようにシェフに決められているカレーとライス」が精神なのです[※2]。
では、絶望とはなんでしょうか。それは「カレーライスが出来てない」状態です。これには二つのパターンがあります。
まず一つ目は、「カレーライス作りたくない!」というパターン。これは、「自己自身から逃れようとする絶望」と呼ばれます。ここでは、「カレーとライスは別々のままがいい…」とか「カレー食べたくない」みたいに、「カレーライス」を作ること(自己)から逃れ出ようとします。「私ってほんと馬鹿…もっといい人間になれたらいいのに…」みたいな絶望はこれに入ります。
二つ目は、「これがおれのカレーライスだ!」というパターン。これは、「自己自身であろうと欲する絶望」です。ここでは「おれの考えた最強のカレーライス(自己)」を作っている状態にあります。
でも、これって絶望しているんでしょうか? むしろ、自己肯定感が高くて、ハッピーなようにも見えますよね?
しかし、やっぱりこれは絶望なのです。というのも、「カレーライス」はシェフの教えに従って作るものだからです。
「おれの考えた最強のカレーライス」は、シェフの示した「カレーライス」を無視して勝手に作られたものです。その場合、「(シェフの示した通りの)カレーライスは出来ていない」のであって、それゆえ絶望状態にあるのです。
これら二つの絶望に共通するのは、シェフの教えを無視する「わがまま」だということです。カレーライス作りたくないのも、勝手に創作カレーライス作り出すのも、全部わがまま。つまり、「カレーライスが出来ていない」のは自分のせい。絶望している人は、絶望を自分で引き寄せているのです。このことは、第二回で詳しく触れます。
6. 絶望を治すには:「カレーライス」作ろう
絶望は「カレーライスが出来ていない」状態であるとすれば、絶望が治すには「カレーライス」を作ればいいのです!
もちろん、ただ作ればいいわけではありません。勝手にカレーライスを作ってしまったら、「これがおれのカレーライスだ!」型の絶望にはまってしまいます。
ここで重要なのは、「カレーライス」を作るにはシェフ言うことを聞かなければならないということ。つまり、絶望を治すためには必ずシェフが必要なのであって、自分一人ではどうにもならないのです。
なので、自分独りで「カレーライス」作るぜと思っても、それは無駄な努力であって、むしろ絶望を深めることになります。
つまり、絶望が治った状態というのは、「シェフにしたがってカレーライスを作っている[※3]」状態です。これを難しく言うと以下のような定式になります。
必要なのは、「カレーライスを作ろうという意欲(自己自身であろうと欲すること)」と、「シェフの教えをちゃんと聞くこと(自己を措定した力の内に根拠を置く)」こと。これで絶望は完治! みーんなハッピー! お疲れさまでした~!
…と、ならないのが絶望の難しいところ。というのは、絶望しないのがいいというわけではないからです! 次回!** 「第2回 絶望は不幸じゃない!?|A-b 絶望の可能性と現実性」**をお楽しみに!
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