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語りはじめた彼女たち 『わたしが先生の「ロリータ」だったころ 愛に見せかけた支配について』(梅田 蔦屋書店 河出真美さんによるレビュー)

大人の男による少女の搾取をナボコフの名作になぞらえて描き、反響を読んでいるノンフィクション『わたしが先生の「ロリータ」だったころ 愛に見せかけた支配について』(アリソン・ウッド著、服部理佳訳)。梅田 蔦屋書店の河出真美さんよりすばらしいレビューが届きました!

語りはじめた彼女たち

河出真美(梅田 蔦屋書店)

 今、語りはじめたひとびとがいる。

 たとえば、ヴァネッサ・スプリンゴラ。彼女は作家Gとの関係を綴った『同意』を発表し、話題を呼んだ。有名作家だったGは、十四才だった彼女と手紙のやりとりをし、自室に誘い込み、性的な行為に及ぶ。当時世間は十代の少年少女と大人との性的関係に寛大だった。名だたる作家、学者たちが未成年者と性的関係を持った人々の拘留に抗議していた(!)ぐらいである。抗議者たちの顔ぶれを見れば驚くだろう。スプリンゴラの母でさえ、最初に二人の関係を知った時こそ反対するが、その後容認に回る。Gとの関係はやがてスプリンゴラを傷つけ、彼のもとを離れた後も長年彼女を苦しめる。

 たとえば、ジェニファー・フォックス。彼女は十三才の時に四十代のコーチと性的関係を持つに至った自らの体験を基にした映画『ジェニーの記憶』を監督した。フォックスが調べてみたところ、そのコーチは成功して、いくつもの賞を受賞し、名前を付けられている建物がいくつも大学にあるほどだそうだ。

 そして本書の著者、アリソン・ウッドがいる。高校生だったウッドは、英語教師のノース先生と親しくなる。やがて二人は親密になり、夜のダイナーで逢瀬を重ね、ウッドの卒業後、「恋人同士」になる。

 「恋人同士」と括弧でくくったのは、二人の関係を恋愛関係と呼ぶわけにはいかないからだ。ウッドは未成年であり、学生だった。ノース先生は大人で、教師だった。本当に相思相愛なら生徒と教師だろうと恋人同士でいいじゃないか――そう思われる向きがあるかもしれない。だが本書を読めば、大人で教師でありながら未成年の学生に近づき、その心身を弄ぶ行為がいかにおぞましい行いなのか、いかに被害者に深刻な影響を引き起こすのかがわかるだろう。何よりも恐ろしいのは、誰にも知らせることさえできないようなこの関係を、ウッド自身が「恋愛である」ととらえていたことだ。年の差はあり、彼は大人で、彼女は子どもだが、ふたりは真剣にお互いに恋していて、ついに結ばれた――そのような物語を、彼女自身が信じていたことだ。

 そう信じていたのは彼女だけではない。スプリンゴラも、フォックスもそうだった。年上で、大人で、権威を持ち、地位があり、そういう人間が少女たちに目をつけ、たくみにその心を操り、自らの欲望のえじきにするが、少女はそれを愛情ととらえ、自分たちは恋人同士なのだと考える――これが三つの物語に共通するパターンだ。

 しかし、目を向けてほしいのはそのパターンではない。もう一つのパターンだ。三つの物語にはもう一つの共通するパターンがある。数年、数十年の苦しい時期を経て、少女は自分たちが恋人同士なんかではなかったこと、自分が獲物で、相手が捕食者であったことを悟る。そして、文章で、映像で、自らの物語を語りはじめる。年齢を超えて結ばれた恋人たちの物語を、狙われた少女とおぞましい虐待者の物語として語りなおす。私たちが今目にしているのは、そういう試みだ。

 上に、「本書を読めば、大人で教師でありながら未成年の学生に近づき、その心身を弄ぶ行為がいかにおぞましい行いなのか、いかに被害者に深刻な影響を引き起こすのかがわかるだろう」と書いた。わかるだろうし、わからなければならない。親しい人や世界が守ってあげるべきだったのに守られなかった少女たちが今語りはじめたのは、自分のように語らなければならない少女たちが、一人もいなくなるようにするためなのだから。

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『わたしが先生の「ロリータ」だったころ』表紙画像

わたしが先生の「ロリータ」だったころ 愛に見せかけた支配について
アリソン・ウッド/服部理佳訳
四六判並製 336ページ/本体価格2200円+税
ISBN 978-4-86528-068-5
左右社より好評発売中
冒頭試し読みはこちらから


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