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うたいおどる言葉、黄金のベンガルで#2 (映像作家・佐々木美佳)

映画『タゴール・ソングス』監督であり、「ベンガル文化」「タゴール・ソングス」などをテーマに撮影、執筆、翻訳などを幅広く手がける佐々木美佳さんによる新連載「うたいおどる言葉、黄金のベンガルで」。ベンガル語や文化をとりまく、愉快で美しくて奥深いことがらを綴るエッセイです。第2回は、バングラ行ったら乗らなきゃ損、な交通手段「リクシャ」について。

#2 チケット・トゥ・リクシャライド

「ミカさーん。今度バングラデシュに行くんだけど! どのベンガル語覚えて行けばいい?」
コロナが猛威を振るう前、神田でバングラデシュ料理屋を営むシェフのヒロタさんから突然質問された。前職の職場ちかくにあったヒロタさんの店に当時の私は通っていた。料理の修行でバングラデシュに渡航するらしい。なんと変わった日本人がいるものだと感慨に耽りながら、私はバングラデシュでの滞在経験を思い出していた。
「そうですね……私がアドバイスするとしたら『右、左、まっすぐ、ゆっくり、もういい』を覚えてください」
我ながらトンチンカンなアドバイスである。しかし、バングラデシュ旅行の楽しみといえば「リクシャ」に乗ることであり、乗ったらこの言葉を使ってみたくなるからだ!

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ダッカの夜のトラフィック。

旅の醍醐味というのは人それぞれだろう。私にとってのそれは「乗り物に乗ること」だ。見慣れた街並みを離れ、異国の風景に身をひたすことで、普段は考えも及ばない人生のあれこれに思いを巡らせることができる。旅先で感じる風や、普段出会わない人々からの刺激を受け、自らが新しく蘇るような感覚を旅から得ることができる。

さまざまな思いを抱えた旅人は、旅の始まり、飛行機の窓を見つめる。蛇行する川と緑の大地が一面に広がるベンガル地方の風景に、旅人であるあなたは胸を踊らせるだろう。バングラデシュの玄関をくぐると、慣れない街と人々の熱気に囲まれ、日本では経験したことのないような衝撃を覚える。異国の強烈な歓待の興奮が冷めやらぬ中、旅人は事前に手配したホテルのタクシーに乗り込む。クラクションの喧騒とじんわりとまとわりつくようなダッカ特有の湿気を感じながら、これから出会う土地と人々に思いを巡らせる……
 
といった具合に、「移動」という装置には物語を推進させる力があり、実に映画的である。上記の文体で物語を書き進めれば、二十一世紀版『深い河-そしてベンガル湾へ』が誕生し、ベンガルの大地でさまざまな運命が交錯する小説がベストセラーになるかもしれない。
しかし私がこの文章を書く目的は、そこではない。「リクシャ」という乗り物の、トリックスター的な側面、物語をぶった切って、思わぬ方向にあなたを導く可能性があるという「乗り物」らしからぬ不確実性に、焦点を当てたいのだ。言い換えると、前述のような甘美な時間を「リクシャ」がもたらしてくれるものではないということを、あらかじめ読者の皆さまに警告しておく。

さて、リクシャ、リクシャと繰り返しているが、それは一体どういう乗り物なのだろうか。勘の良い方々ならその音の響きを聞いて「人力車」を思い浮かべるかもしれないが、それは間違っていない。リクシャとは明治期にアジア諸国に輸出された日本の人力車がローカライズされた乗り物である。日本で人力車は観光地でしか乗ることのできない乗り物だが、バングラデシュの首都ダッカ市内の、毛細血管のような道路を縦横無尽に走るリクシャは、市民の大切な移動手段だ。交通渋滞の多いダッカ市内で目的地にたどり着くためには、小回りの効くリクシャは庶民の足として重宝され、比較的近場を移動する場合でも多用される。

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これがリクシャだ!

初めてリクシャに乗ったのは、学生時代のショートステイだった。大学教授の家にホームステイした私を、教え子の女子学生さんたちがつきっきりになって世話してくれた。同年代くらいの二人はダッカ大学の学生さんで、普段みんなで遊ぶ場所や、ちょっとした観光地に私を連日案内してくれた。その時に彼女たちが移動手段として主に利用していたのが、リクシャだった。
日本のタクシーであれば料金メーターが作動するため、安心安全である。しかし、リクシャを運転するのは屈強なおじさんたち。料金はおじさんの言い値で交渉がスタートし、時には相場より高い値段を吹っかけられることもある。可憐な女子学生たちは相場から少しでも高い値段を提示されると、
「ふざけるな! ここから近い距離なのに、そんな値段のはずがない。あんたのリクシャ乗るわけない! 別の人探すからどっか行って」  
超強気の態度で相手を一旦振り払い、別のリクシャのおじさんに交渉を始める。別のリクシャ乗りのおじさんと交渉を始めていると、先程の高値を言い放ったおじさんが追いかけてきて、
「わかった。あんたらの言い値で乗せてやるよ」
という具合に、突然値段が下がるのである。突然しおらしくなったおじさんに媚びることもなく、「仕方ねえ、乗ってやるか」と言わんばかりの女王のような足並みで、堂々と乗車し、交渉成立。同年代の女子学生が、そのような特殊な交渉術を身につけていることに私は驚愕した。浅草の人力車のお兄さんたちに囲まれた際、私はそのような交渉術でもって値切ることができるのだろうか……。きっと言い値が当たり前のように感じてしまい、そのまま乗車してしまうだろう。この国を生きるためには、黙っていてはいけない。主張することが必要なのだと身をもって感じた瞬間だった。
 
さあ、いよいよリクシャに乗車できた! あとはダッカ市内の風を感じながら、異国の風景を楽しむ時間が始まる……と思いきや、そうは問屋が卸さない。まずはバングラデシュ人女子学生二人と、私。どう見ても二人乗りの座席に三人目がどこに座ればいいのかまず戸惑いを覚える。「私らの間に座ればいいんだよ〜」と気楽にアドバイスされるものの、座席はすでにぎゅうぎゅうである。私は座敷童の如く二人の間のわずかなすきまにチョコンとお尻をおろした。「えっと、足はどこに?」ベンガル語で必死さをアピールすると、「ここにおけばいいんだよ〜」と、座席部とリクシャ漕ぎのおじさんのサドルの付け根の金具の出っ張りを指さされ、「どうにでもなれ……!」、意を決してそこに足を置くのである。こんな体勢で、乗り物に乗車したことがない。異国の風を感じて物思いに耽る余裕がすでにない。
 小さい頃から車に乗車したらシートベルトをするようにと口酸っぱく言われ続けた私の、シートベルトのないリクシャライドがスタートした。私たちを乗せたリクシャは、ダッカ大学を抜けて、南方の、オールドダッカと呼ばれる旧市街を目指す。主要な道路を車とリクシャがごった返し、車もリクシャもお互いの存在を誇示しあうようにクラクションを鳴らしまくる。その間のなんとも言えない時間を、セルフィーを撮りまくりながら、和気あいあいと過ごすのがバングラ流。時に車同士がぶつかったり、リクシャ乗り同士が言い争ったりしているが、そんなことは関係ない。ダッカっ子ならば、今この瞬間、友とリクシャに乗っているという時間を精一杯満喫すべし!

さあ、楽しい時間を過ごしながら渋滞を抜け細い小道にいよいよ入る。リクシャのおじさんはボーナスタイムと言わんばかりに、渋滞の時間を取り戻すかのような勢いでリクシャを加速させる。しかし小道に入れば入るほど、未舗装の道路が続く。でこぼこした道路でリクシャのおじさんは、容赦無くスピードを上げ続ける。その度に座席がゴンゴン揺れ、シートベルトのないジェットコースターに乗車しているような気分が味わえる。物思いもへったくれもない。縦揺れだけでなく横揺れも加わり、スピードと揺れの予測不可能な乗り心地に五感は刺激されつづける。混乱の中感じることといえば、「お尻が痛い」とか、「無事に下車したい」とか、至極シンプルなことであった。

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生きた心地のしなかったリクシャ移動が無事終わり、目的地に到着してリクシャから降りることができた。オールドダッカの街並みや遺跡を見て回る。その後も小回りの効く移動は全てリクシャに乗ったから、段々と恐怖心が薄れていき、三人乗りでも安心して身を任せることができるようになった。果敢にリクシャの交渉をする女子学生に憧れ、私もいつかこの街をリクシャで乗りこなしてみたいと思うようになった。案外そのチャンスはすぐに訪れる。映画の撮影でこのリクシャという乗り物には何度もお世話になったから、おかげさまで私は価格交渉のスキルを手に入れた! 以下、自分でリクシャ乗りの交渉をした体験談を記述しておく。バングラデシュ渡航をする際、役に立つかもしれないのだから。
  
・リクシャのおじさんたちと価格交渉で困った時どうするか
→言われた額がどうも高すぎるな……と感じる時は、おそらく外国人価格になっている可能性がある。近くにいるバングラデシュ人に恥ずかしがらず”Excuse me”と言うべし。行き先と言われた値段を第三者に相談し、適正価格を教えてもらおう。間に入ってもらえそうな第三者が英語を知っている場合は、ベンガル語がわからなくても大丈夫。外国人価格になっていた場合、適正価格を知っている第三者が果敢に値段交渉を代行してくれるはず。そのうち物珍しさにやんややんやと人だかりができ、ソーシャルプレッシャーからリクシャのおじさんは適正価格にせざるを得なくなってしまう。女子学生の価格交渉術でも分かるように、価格交渉の際、少しでもおかしいと感じたら妥協してはならない。リクシャに乗車する際、複数のリクシャ乗りが待機していることもあるので、値段を聞きに回ることも有効な手段である。

・下車時に支払額で揉めた時どうするか。
→これは失敗談なのだが、乗車前に価格交渉をしなかったことが一度だけある。撮影のために、「ちょっとこの辺りを一周して欲しいです」というざっくりした交渉をしてしまったからだ。「オーケーマダム」と愛想のいいお兄ちゃんに油断し、短時間だから外国人価格になったとしても100タカ※くらいだろうと鷹を括っていたのが駄目だった。下車時、500タカほど請求されてしまい、「高すぎる」と言っても「これだけ運転して、渋滞もあって、想像以上に時間がかかってしまった!」と言われてしまえば勝ち目がない。これ以上言い合うと争いに発展しそうな険悪なムードだ。私にとっては勉強代で、かつこのお兄ちゃんのボーナスになるに違いないなどと、いろいろ自分を納得させる理由を心の中で考えて、渋々500タカを支払った。500タカあれば、短距離のリクシャに15〜20回くらい乗れたはずなのに。この失敗から学んだことは、価格交渉は事前に行うべしという至極真っ当なことだ。これはフリーランス生活のスキルにも通じている。価格交渉は、事前に行うべし。

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いざ、乗車

成功と失敗を繰り返す中で、私にはいよいよ一人でリクシャに乗るという最終ラウンドが待ち受けていた。仲の良いご家族さんの家に向かうというミッション。何度も訪問したことがあるから、道はほぼ覚えているし、リクシャを使うのに適している距離である。危険を感じる雰囲気の道程ではないし、午前中の良いタイミングである。何かおかしいと感じたら、途中で降りて歩くこともできる。外国人女性一人でリクシャに乗るとしたら今しかない。身につけた全ての技術を今ここで試す時が来た……と、自動車免許の最終試験のような心持ちで私は「ヘイ、リクシャー!」 と道路に駆け寄り大きく手をあげた。すると、
「どこに行く?」
渋めのリクシャのおじさんが声をかけてきた。
「ダンモンディまでお願いします!」
「……50タカ」
今はこれが相場かどうかなど気にしている暇はない。50タカで乗ることにした。

その日はちょうど休日で、いつもは渋滞する道も広々とした感じで、おじさんも心なしか漕ぎやすそうな雰囲気だった。暑くもなく寒くもない快適な朝のダッカの風を感じる。
「まっすぐ進んでください」
言ってみたかった言葉を私は発する。言わなくてもこの道は真っ直ぐなので、とにかく真っ直ぐ進んでくれている。安心だ。
「右に曲がってください」
次の道路が見えてきたタイミングで、適切な指示出しをする。するとおじさんは、首を振るではないか。なぜ言葉が通じないのだ……頭を抱えていると、ふと気がつく。目の前の道路はリクシャが一台も走っていない。自動車やバイク専用の道路をリクシャが走行することはできないから、ここで降りるしかないのだ。
「もういいです……」
目的地まで辿り着いた時に発したかった言葉は、失意の言葉と変わる。道半ばなのに50タカは高すぎるよおじさん……しかし言い返すよりも50タカ支払う方が良さそうな雰囲気だったので、抵抗せず50タカ支払う。おじさんはお金を確かに受け取ると、次の仕事のために颯爽と消えていった。

しょぼくれながら私は歩道橋を使って目の前の憎らしい道路を横断し、次の道へと入った。すると再びリクシャが現れるではないか! ここで徒歩という逃げの選択肢は存在しない。なんとしてでも目的地にリクシャで辿り着いてみたかった私は、果敢に再チャレンジを申し込む。成功するまで執拗にやり続けるのだ。「ヘイ、リクシャー!」
今度は若くて寡黙そうな運転手のお兄さんだった。住所のメモを運転手に見せると「OK, 30タカ」と言う良心的な価格にホッと胸を撫で下ろし、乗車を決意する。事前にピンを落としておいたGoogleマップとにらめっこしながら左折ポイントの目星をつけていたので、「左に曲がってください」も適切なタイミングで指示出し成功。主要道路から住宅街に入ることが出来た。

しかしここでもう一度トラブル発生。住宅街はコレといった特徴的な目印がないため、右折か左折か全く分からない。Googleマップのピンも大体で設定していたので、頼りにならない。若い漕ぎは速度が早いので尚更こまる。「ゆっくり進んでください」と指示しながら、とりあえず心当たりを「右に」「左に」と繰り返しているうちに、もはやどこにいるのだか分からなくなってきた。ちなみに筆者は重度の方向音痴ではないが、軽度のそれではある。ここは自分を信用せず、潔く、「もういいです!」と下車することにした。お兄さんに30タカ支払って、どこだか分からない住宅街に降ろしてもらう。さて。あとはもう人海戦術しかない。私はお待たせしているであろうご家族さんの家に電話し、「多分近くにいるんだけど、道に迷いました」と白状した。「誰か近くに人はいない? その人と変わって」という指示に従い、道をぷらぷらと歩いている近所のおじさんに「エクスキューズミー、この電話を聞いてくれますか?」とレスキューを求める。電話越しで何やら話し合いが行われたあと、見ず知らずのおじさんは、「ここで待っていればOK」と言い、スマホを返してくれた。すると数分後、「ミカさーん」と大きく手を振りながら、知り合いが迎えにきてくれた。目的地にたどりつければなんでもいい。一人でリクシャに乗れたこと。言語学習とともに、少しずつ自分のできることが増えていくことこそが、嬉しいのだ。

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大成功とは言えないこの日の小さな冒険は、自分史のなかで「リクシャに一人で乗れた日」として燦然と輝いている。初っ端から一人リクシャは全くお勧めできないのだが、バングラデシュを旅行する機会があれば、是非とも同伴者を見つけてリクシャに乗っていただきたい。「右、左、真っ直ぐ、もういい」はすぐには使わないとしても、スピード出しすぎに「ゆっくり!」とベンガル語でリクシャのおじさんとコミュニケーションすることは可能なのだから!

※バングラデシュの通貨単位は『タカ』。現在のレートでは、1タカ=1.3円程度

佐々木美佳(ささき・みか)

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映像作家・文筆家。福井県出身、東京外国語大学ヒンディー語専攻卒業。
在学中にベンガル語を学び、タゴール・ソングに魅せられてベンガル文学を専攻する。「タゴール・ソング」をテーマにドキュメンタリー制作を始め、2020年に映画『タゴール・ソングス』を全国の劇場で公開する。
映像と言葉を行ったり来たりしながら、自分以外の世界に触れることの喜びを紡いでいきたい。

ホームページ Twitter
Photo: tonakai

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